ボードゲーマーに贈る「クトナー・ホラ」の歴史的背景


ボードゲーム「クトナー・ホラ」とは

 ホビージャパン/捷Czech Games Editionより発売されているボードゲーム「クトナー・ホラ:銀の町(原題:Kutná Hora: The City of Silver)」は、銀鉱脈が発見されてことで出来た町「クトナー・ホラ」で、銀を採掘し町を発展させ、より多くの勝利点を稼ぐゲームです。
 ハンドマネジメントを中心にタイル配置やエリア・マジョリティや価値変動など、ボードゲームの様々なメカニクスが搭載された「総合メカニクス」と呼ばれるタイプのゲームらしいです。

 クトナー・ホラとは、私もこのボードゲームの日本語版の発売が告知されるまで全く知らなかったのですが、中央ヨーロッパはチェコに実在する都市の名前で、首都プラハの東、列車で1時間ほどの距離にあるそうです。

 原語版の出版社がチェコの会社なので、彼らにとっては単に自国の都市をモチーフにしただけってことですね。特定の都市にインスピレーションを得たボードゲームは、フランスのカルカソンヌを始め数多くあり、クトナー・ホラもそう言ったもののようです。

 ゲームタイトルに「銀の町」とあるように、クトナー・ホラはかつて銀採掘で栄えたそうで、当時建造された歴史的建築物群は1995年に世界遺産にも指定されています。それらの建築物の中には、かつて王国造幣局が置かれた旧王宮(ヴラシュスキー宮、イタリア宮)があり、ここで鋳造された銀貨は国際通貨として中央ヨーロッパ中に流通していたそうです。
 つまり、当時のクトナー・ホラは中央ヨーロッパの経済の要所だった訳ですね。そりゃ世界遺産に指定されるのも当然だわ。 
 しかしその重要性からフス戦争(1419年〜1434年)や三十年戦争(1618年~1648年)などの戦禍に巻き込まれ、また15世紀後半になって銀が枯渇し始めると徐々に衰退し、一時は廃墟と化したこともあったようです。18世紀頃までには建物が再建されたり建設再開したりしており、19世紀末に経済活動の中心地が移ったこともあってか、二度の世界大戦では大きな被害を受けなかったようで、現在でも中世風の街並みを保っており、往時の面影を伝えています。

 今回はそんなクトナー・ホラの歴史を詳しく辿っていきたいと思います。

金属の町クトナー・ホラ

 中央ヨーロッパの内陸部に位置するクトナー・ホラですが、紀元前から集落が存在していたそうで、紀元前5~1世紀頃の陶磁器が多数発見されているとか。また紀元前2~1世紀頃のものと見られる製錬炉も発見されており、そこに磁硫鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、銅の痕跡が残っているそうです。
 まだ金属加工が未熟だったであろう青銅器時代や鉄器時代からクトナー・ホラは、金属鉱石の採掘と製錬が行われていたんですね。
 当時は中央ヨーロッパ広域にケルト人が居住しており、クトナー・ホラの近隣でもケルト人の居住地や墓地が発見されているそうです。地図を見るとチェコの辺りは南にアルプス山脈、南東にタトラ山脈が位置し、ちょうど両山脈が途切れる地域の北に位置することから、「壁の途中の出入口前の広場」と言った感じの地域になります。となれば人が集まるのも必然で、様々な金属鉱脈が見つかったクトナー・ホラは必然的に金属と言う貴重品を求める人々が集まったんでしょうね。

 そんなクトナー・ホラで銀が扱われ始めた時期は、実はあまりハッキリとは分かっていません。
 伝承によると8世紀末から銀の採掘が始まったと言いますが、実際には近隣の村で10世紀頃のディナール銀貨が発見されている程度で、使われている銀もクトナー・ホラ産かどうかはよく分かっていません。それにディナールは基本的に西ヨーロッパや中東やアフリカに在った東ローマ帝国やイスラム帝国の通貨であるため、離れた中央ヨーロッパで作っていたとは考えにくいでしょう。

 そんなクトナー・ホラが確固たる町となったのは、1142年に隣町のセドレツにシトー会の修道院が創設されたことが切っ掛けだとか。現在では納骨堂が人骨で装飾されていることで有名ですが、創設当初はごく普通の納骨堂だったそうです。
 創設当初の修道院は財政難で苦しんでいたそうですが、修道院の所有する山で1260年に銀鉱脈が発見されます。採掘の利便性から近くに鉱夫の集まる集落ができ、集落はたちまち拡大し街へと発展したそうです。いわゆるシルバー・ラッシュです。前述の通り、元々他の金属鉱脈のある地域だったので、もしかしたら銅や亜鉛などを採掘していた鉱夫が銀の採掘に鞍替えし集まったのかも知れませんね。だって銀だもの。
 また鉱夫の多くはドイツ人だったようで、クトナー・ホラと言う街の名前もドイツ語名の「クッテンベルク」をチェコ語に訳したものと言われています。ドイツ語の「クッテ」の意味は諸説ありますが、「堀」や「溝」、修道士の僧衣(修道士が銀を発見し、目印として僧衣を置いた伝説があるとか)などが考えられるそうです。またチェコ語名の「クトナー」も「採掘」を意味する古チェコ語が由来ではないかと考えられています。

銀の町クトナー・ホラ

 銀鉱脈の発見からわずか20年で、ヨーロッパに流通する銀の1/3をクトナー・ホラ産が占めるようになったそうです。当時の具体的な産出量をネットで見つけることは出来ませんでしたが、ヨーロッパにおいてクトナー・ホラが重要な地になったことは間違いないでしょう。
 当時のクトナー・ホラをようしていたのはボヘミア王国で、独立国家だったものの10世紀以降は神聖ローマ帝国に服属していたそうです。なのでクトナー・ホラの銀は恐らく、広く当時の神聖ローマ帝国の領土で流通したのでしょう。神聖ローマ帝国の領土は1200年~1250年頃に最大となっているようで、そこからやや勢力は衰えたとは言え、当時も現在のドイツやオーストリア、スイス、オランダ、フランス最東部やイタリア北西部を含んでいたので、「広くヨーロッパに流通した」と言うのが決して大袈裟ではないことが分かります。
 その影響もあったのでしょうか、1289年にクトナー・ホラは正式な都市となり、同年にボヘミア王ヴァーツラフ2世は選帝侯(神聖ローマ帝国の中核を担う「ローマ王」を決める選挙権を持つ諸侯)となったそうです。

 ちなみに当時の神聖ローマ帝国は「大空位時代」と呼ばれる政権不安定な時代であり、ヴァーツラフ2世の父ボヘミア王オタカル2世は当時の神聖ローマ帝国皇帝でハプスブルク家のルドルフ1世と対立し1278年に戦死しています。父を継いだヴァーツラフ2世は即位当時まだ7歳で、父の所領だったオーストリアをルドルフ1世に奪われたとか。ハプスブルク家、現在はかつてのオーストリア領主として知られていますが、実はこのときオーストリアを奪ってたんですね。知らんかったわ。
 1289年にヴァーツラフ2世が選帝侯となった背景には、クトナー・ホラの銀の影響力だけでなく政治的な思惑――選帝侯にしてあげるからオーストリア返せとか言うなよ――があったのかも知れません。

 ヴァーツラフ2世は1278年に7歳で即位し当初は重臣たちに支えられていましたが、選帝侯となった翌1290年から親政を始め、父の死によって失われた国力を取り戻すべく、クトナー・ホラの銀を巧みに利用することになります。
 1292年、ヴァーツラフ2世はイタリアの弁護士にして法学者ゴッツォ・ドルヴィエート(Gozzo d'Orvieto)を招き、鉱業に関する基本的な規則を定めた王法「Jus regale montanorum(鉱山法)」を起草しました。ヨーロッパの鉱業法としては最初期のものですが、残念なことに原文は失われてしまったそう。このとき同時に通貨改革が行われ、純度93.3%の高品位な銀貨「プラハ・グロシュ」が誕生することになります。
 それまでボヘミア王国や神聖ローマ帝国で使われていた銀貨については調べが付きませんでしたが、それ以前の古代ローマ帝国時代にはディナリウス銀貨が使われており、以後もその系譜を継いだ銀貨が各地で使われていたとか。しかし時代が下るごとにそれらも品質が低下したため、12世紀から13世紀にかけて、各地で新たに作られた高品質な銀貨がグロシュ銀貨だったそうです。

 ちなみに隣国フランスでは12世紀末から13世紀初頭、尊厳王フィリップ2世が各地で勝手に作られていたドゥニエ銀貨(ディナリウス銀貨のフランス語読み)の標準化を行いましたが、孫の聖王ルイ9世の時代、1266年以降はグロ・トゥルノワと呼ばれるグロシュ銀貨を鋳造するようになり、これにクトナー・ホラの銀も使われていたようです。

 1300年、ヴァーツラフ2世はイタリアのフィレンツェから技術者を招き、クトナー・ホラに王立造幣局を設立。フランスやトルコのグロシュ銀貨などを参考に、ボヘミア王国の統一貨幣として銀貨プラハ・グロシュの鋳造を始めます。
 ちなみに王立造幣局はクトナー・ホラの王宮「ヴラシュスキー宮」に併設されており、以降の歴代のボヘミア王はヴラシュスキー宮に滞在することも多かったようです。イタリア人技術者が招かれた王立造幣局にちなんでこの王宮は「イタリア宮」とも呼ばれました。
 また同時にボヘミア国内では銀貨以外の銀の流通を禁止します。銀鉱山の持ち主は造幣局へ全ての銀を預け、代金を銀貨で受け取っていたとか。以降、クトナー・ホラの銀は全てプラハ・グロシュとなり、他の方法で手に入れることは出来なくなったようです。

 こうしてクトナー・ホラから産出した莫大な量の銀はプラハ・グロシュ銀貨となり、その品質から高い信頼性を勝ち得て、国際通貨として中央および東ヨーロッパに流通することとなります。プラハ・グロシュの流通はボヘミア王国の国庫を潤し、クトナー・ホラを要地へと押し上げました。ボヘミア王国はクトナー・ホラの銀によって「神聖ローマ帝国の銀行」と言える地位を得たのです。
 これに目を付けたのが、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世を継いだローマ王アルブレヒト1世でした。彼はは厳格ながら冷徹な人物で、自身の勢力を拡大するに際しヴァーツラフ2世にクトナー・ホラの銀で得られた収益を要求したそうですが、ヴァーツラフ2世は当然これを拒否。それ以前から両者はハンガリーの領有を巡って対立していたそうで、1304年にアルブレヒト1世の軍はクトナー・ホラを包囲しますが、冬の寒さと飢えに苦しんで撤退、要求も撤回したそうです。
 しかし1305年にヴァーツラフ2世が病没、後を継いだヴァーツラフ3世が1306年に暗殺され王家が断絶すると、ボヘミアの王位を巡って政治的な闘争が起きました。
 ヴァーツラフ2世の娘婿(次女の夫)インジフ・コルタンスキー(チロル伯兼ケルンテン公ハインリヒ6世、アルブレヒト1世の義弟でもあります)とアルブレヒト1世を後ろ盾にした息子ルドルフ(オーストリア公ルドルフ3世兼ボヘミア王ルドルフ1世)が僅か2年で即位と廃位を繰り返し、その後1310年にルクセンブルク家のヤン・ルケンブルスキー(ヨハン・フォン・ルクセンブルク、ヨハン盲目王)がヴァーツラフ2世の三女と結婚して即位、以降100年ほどに渡ってルクセンブルク家がボヘミア王を継ぐことになります。
 なおクトナー・ホラにおける銀の採掘量はこの頃、1290年から1350年にかけて毎年20トンあったと推測されています。もちろん現代の銀の採掘量(メキシコが世界トップで2021年の採掘量は6100トンだそう)にはかないませんが、江戸時代から1980年代まで佐渡島で採掘された金の総量は78トンだそうなので、単純な比較は難しくとも、クトナー・ホラの銀の埋蔵量が当時としては相当なものだったのは間違いありません。

 ボヘミア王となったヤン・ルケンブルスキーですが、彼はルクセンブルク伯領の発展には寄与するものの、ボヘミアには「税の徴収の時にしか戻らない」と言われるほど不在がちだったためボヘミアでの評価は低く、代々ボヘミア王家に仕え事実上ボヘミア王国を統治した大貴族たちとは不仲だったとか。そのためヤンは息子カレル1世にボヘミアの統治を任せるようになり、1346年に正式にカレル1世に譲位します。
 カレル1世の母は前述のヴァーツラフ2世の娘で、彼もプラハで生まれ「ヴァーツラフ」と名付けられましたが、政治的な理由で父ヤンの妹がフランス王妃だった縁からフランスの宮廷で養育されることになり、その頃「シャルル」に改名したそうです(カレルはシャルルのチェコ語読み)。彼は10代の頃にフランス貴族ピエール・ロジェによって優れた統治者となる教育を受けており、ボヘミアの統治も彼自身の能力やヴァーツラフ2世の孫と言う立場もあって極めて円滑だったようです。
 そして1346年、ローマ教皇となっていたピエール・ロジェことクレメンス6世によって、カレル1世はローマ王に擁立されます。これは当時の神聖ローマ皇帝であったバイエルン公ルートヴィヒ4世とクレメンス6世が対立していたためで、ローマ王はローマ教皇の承認によって正式に「神聖ローマ皇帝」となるシステムなので、カレル1世を事実上の神聖ローマ皇帝と認めたようなものでした。
 1347年、カレル1世がボヘミア王国の戴冠式を行った直後にルートヴィヒ4世が亡くなり、カレル1世は晴れて神聖ローマ皇帝カール4世となります。しかし反対勢力も根強かったため、彼はボヘミア王国の基盤を固めることに邁進し、ボヘミア王国の黄金期を築きました。特にプラハの街をパリに倣って整備したことが、現在でも高く評価されています。

 カレル1世がボヘミア王だった間、プラハ・グロシュ銀貨は4回改鋳されており、治世末期の1370年から1378年に鋳造されたプラハ・グロシュ銀貨の純度は76.3%にまで下がりました。これはカレル1世がプラハ・グロシュ銀貨の増産によりボヘミアの財政を強化したためだそうで、これによりプラハ・グロシュ銀貨は神聖ローマ帝国の本位貨幣(貴金属の含有量と額面に差がないため「価値基準」として扱われる貨幣)の役割を担い、国際通貨として流通する大きな一因となりました。

 しかしカレル1世を継いだ息子ヴァーツラフ4世は、父からは大きな期待を寄せられローマ王にも選出されたものの、1378年に父が亡くなり親政を始めると様々な失政により、ボヘミア国王の権威を失墜させました。こと、カトリック教会の内部分裂に伴う諸問題は神聖ローマ帝国の選帝侯に丸投げし10年以上もボヘミアに引きこもっていたそうで、それが原因で「ローマ王には相応しくない」と新たなローマ王ループレヒト3世が立てられますが、彼はそれを認めず、しかし国内での権威の失墜により反対勢力をどうすることもできないままローマ王を称し続けました。
 ちなみに同時期、国内でもカトリック教会と対立し、それに反発した貴族や異母弟により一時は監禁されたほどでした。

 この頃、1388年にクトナー・ホラ市民の寄付金で、鉱夫の守護聖人である聖バルバラを祀る聖バルボラ教会の建設が始まりました。銀の採掘で栄える町だからこそ、聖バルバラへ祈りを捧げる市民も多かったのでしょう。この教会は教区の中心となる大聖堂の様式で計画された、ゴシック建築のものでした。

 その後ヴァーツラフ4世はローマ王へ再公認されるべく中立の立場を取ったものの、1401年頃からボヘミア国内に広まり始めたイングランドの神学者ジョン・ウィクリフによるプロテスタント思想を支持していたようで、プラハ大学の学長でウィクリフの研究を通じてプロテスタントへ転向した神学者ヤン・フスとその支持者である一般市民(フス派)を保護していました。
 そもそも父カレル1世が1356年に発布した「金印勅書」で、神聖ローマ皇帝の選出に際し「ローマ教皇の認可が必要」と言う要件を外しており、カトリック教会は、カレル1世やヴァーツラフ4世にとって目の上のたん瘤だったのかも知れません。知らんけど。
 しかし当時、ローマ教皇や教会の権威を否定するフス派は異端と見做されました。徐々にカトリックとフス派の対立が表面化する中、ヴァーツラフ4世がフス派を保護する姿勢から、ボヘミアは国際的に孤立していきます。やがて国際的な支持基盤の弱さからヴァーツラフ4世はフス派を庇いきれなくなり、ヤン・フスをプラハ大学から追放し、フス派に支配されていた国内の各教会のほとんどをカトリックへ明け渡すことになります。しかしヤン・フスは1415年に処刑され、更に教会の明け渡しに憤ったフス派は1419年プラハ市庁舎を襲撃しカトリックの市参事会員7名を惨殺。ヴァーツラフ4世はプラハ市庁舎襲撃の報で卒中を起こし、僅か半月後に亡くなったそうです。

カトリックの町クトナー・ホラ

 ヴァーツラフ4世の後を継ぎボヘミア王となった異母弟で神聖ローマ皇帝のジギスムントは、ローマ王位を巡って兄ヴァーツラフ4世と対立しており、更にヤン・フスの身の安全を保障しながら約束を反故にしヤン・フスを処刑した張本人だったため、ボヘミア国内から反発を受け、ここにフス戦争が勃発します。特に首都プラハはボヘミアにおけるフス派の中心地だったため、ジギスムントはクトナー・ホラを拠点としてフス派に対抗しました。何しろクトナー・ホラにはイタリア宮があり、当時はプラハに次ぐボヘミア第二の都市として繁栄していましたからね。市民が自らカトリック教会である聖バルボラ教会の建設に協力し、更にプラハから東に70kmほどと、戦うには近すぎず遠すぎない良い感じの距離だったのも、対抗拠点として都合が良かったのでしょう。
 しかしジギスムントがフス戦争で拠点にしたことで、クトナー・ホラは戦禍に見舞われることになります。
 フス派を率いていたのはヴァーツラフ4世の軍事顧問でもあったヤン・ジシュカで、ボヘミアの没落貴族の出身でしたが、傭兵となって才能を開花させた歴戦の指揮官でした。彼は新兵器を開発し活用した戦術で、ジギスムントやローマ教皇が送り出した十字軍をことごとく破り、1421年にはクトナー・ホラを占領します。休戦によりフス派がクトナー・ホラから撤退した1422年、十字軍は再占領を恐れクトナー・ホラに火を放ち、クトナー・ホラは荒廃しました。また時期は不明ですが、十字軍がフス派の聖職者5000人をクトナー・ホラの坑道に投げ込んで殺したりもしたそうです(大抵の坑道は地下にあるため鉱石の運搬や通気用に竪坑が掘られますが、恐らくその竪坑に落とされたのでしょう)。
 1424年にヤン・ジシュカがペストで逝去した後も、彼の戦術を受け継いだフス派の勝利は10年続き、戦争が長引いたことでボヘミア全土が荒廃し疲弊します。結果、フス派は内部抗争が起き、1434年に穏健派がカトリックと組んで急進派を粛正したことでフス戦争は事実上終息します。その後もフス派の残党がジギスムントの所領であるポーランドで略奪行為をしていましたが、こちらは1439年にポーランド国軍によって殲滅されたそうです。

 フス戦争の間、プラハ・グロシュ銀貨は一応鋳造されていましたが、その供給は不定期で、またヴァーツラフ4世時代の鋳型を使っていたそうです。本来であればボヘミア国王が代わるたび銀貨に刻まれる国王の名前も変わるのですが、ジギスムントの名が刻まれたプラハ・グロシュ銀貨は鋳造されなかったようです。フス戦争が終結するまでジギスムントがボヘミア国民に王として認められていなかったと言う事情もあったからでしょう。
 フス戦争が終結した頃、かつてクトナー・ホラで採掘をしていたドイツ人鉱夫たちは戦禍を避けて移住し、坑道は泥と水で荒れ果てていたと言います。しかし銀の採掘が再開すると共にクトナー・ホラも回復し始めます。
 プラハ・グロシュ銀貨の定期的な鋳造は1457年に約40年ぶりに再開されましたが、銀の純度は50%ほどと品質が低下しており、その頃には供給の途絶えていたプラハ・グロシュ銀貨に代わる銀貨が各地で鋳造されていたこともあって、プラハ・グロシュ銀貨がかつての権威を取り戻すことはありませんでした。
 ちなみに当時のロシアでは銀貨は鋳造されておらず、諸外国の銀貨をそのまま使うか、鋳つぶして銀の延べ棒の形にして使っており、この銀の延べ棒は「ルーブル」と呼ばれていたそうです(これがロシアの通貨単位の起源になりました)。そのため旧モスクワ公国領や旧ノヴゴロド公国領でプラハ・グロシュ銀貨も大量に見つかっているとか。

 1471年、ジギスムントの曾孫であるヴラジスラフ・ヤゲロンスキーがボヘミア王位に就いたことでクトナー・ホラの復興が本格化し、フス戦争の勃発で中断していた聖バルボラ教会の建設も、1481年になって再開されます。しかしこの頃からクトナー・ホラの銀の採掘量は減少し始めたそうで、まだそれなりの採掘量はあったものの、その繁栄に翳りが差し始めました。

斜陽の町クトナー・ホラ

 1510年、ドイツ国境に近いボヘミア北西部の温泉町ヤーヒモフで銀鉱床が発見されたことが、クトナー・ホラの衰退に拍車をかけました。ヤーヒモフを領地としていたシュリック伯爵家Counts von Schlick硬貨の鋳造権コイン・レガリアが与えられ、鋳造された純度92%ほどの銀貨は「聖ヨアキムの谷」を意味するドイツ語「ザンクト・ヨアヒムシュタール」から採られて「ヨアヒムスターラー」と呼ばれました。聖ヨアキムは聖母マリアの父で、鉱夫の守護聖人の1人だそうで、ヤーヒモフと言う町の名もヨアキムのチェコ語読みです。
 ヤーヒモフ付近の他の地域でもこの時期相次いで銀鉱山が開発され、それらの地域は同様に「谷」であったことから、その地名を付けた「○×ターラー」と呼ばれる銀貨が作られたそうです。これらをまとめ略した「ターラー」は現在でも使われる「ターラー」や「ドル」等、様々な貨幣単位の語源となっています。
 1528年にはシュリック伯爵家から硬貨の鋳造権が取り上げられ、ヤーヒモフにあった鋳造工場はボヘミア王国の造幣局になったそうです。ヤーヒモフの銀鉱山がそれだけ栄えていた証拠ですね。
 こうして、かつてディナリウス銀貨の品質が低下し高品質なプラハ・グロシュ銀貨に取って代わられたように、プラハ・グロシュ銀貨の品質が低下したことで高品質なヨアヒムスターラー銀貨に取って代わられるようになったのです。換金に際し1ターラーは30グロシュと定義されたとか。

 更にクトナー・ホラにとっては悪いことに、クトナー・ホラで最も資源が豊富だったオセル鉱山が1541年に水没してしまいます。排水のための坑道も掘られましたが状況は改善せず、オセル鉱山は閉山を余儀なくされました。採掘量の変動について資料は見つけられませんでしたが、かなりの痛手であっただろうことは想像に難くありません。
 ボヘミア国外でも、現在の南米ボリビアのポトシで1545年、スペイン人により銀鉱脈(セロ・リコ銀山)が発見されるなど、この頃に銀を主とする貴金属のヨーロッパ流入により「価格革命」と呼ばれる銀価格の下落が起きており、それが更にクトナー・ホラの価値を低下させました。
 銀の採掘量の減少と銀価格の下落により、聖バルボラ教会の建設は資金不足に陥ったため建設当初の計画より縮小されることとなり、1558年に暫定的な屋根と壁が設置され「完成」とされました。

 またヴラジスラフ・ヤゲロンスキーの娘婿でハプスブルク家のフェルジナント1世が1526年にボヘミア王となると、以降ボヘミアは事実上のハプスブルク領となります。
 1546年、カトリックとプロテスタントの衝突であるシュマルカルデン戦争が起きると、これに乗じた反乱がクトナー・ホラでも起こり、しかし反乱軍は鎮圧されクトナー・ホラに認められていた数々の特権も失ってしまいます。これにより1547年、王立造幣局は廃止され、プラハ・グロシュ銀貨の鋳造が終了しクトナー・ホラの「銀の町」としての権威は失われてしまいますが、その後も細々と銀の採掘は続けられました。1290年から1620年の間に採掘された銀の総量は約2500トンと推測されているそうです。
 なお1300年から1547年まで鋳造されたプラハ・グロシュ銀貨は、国王の名前と細かなディティール、そして銀の含有量を除けば約250年の間ほとんど変化のないデザインだったそうです。ボードゲーム「クトナー・ホラ:銀の町」の外箱にも、プラハ・グロシュ銀貨の表面、最初にプラハ・グロシュ銀貨を鋳造したヴァーツラフ2世の名が刻まれたものが描かれています。

 その後、ペストおよび三十年戦争の発端となったボヘミア・プファルツ戦争(1618年~1622年)などでクトナー・ホラは再び荒廃し、また銀の枯渇に伴い1726年、全ての銀鉱山が閉山します。経済活動も衰え、その中心地は北東約10kmに位置するコリーンに移ったそうです。

世界遺産の町クトナー・ホラ

 銀が枯渇した後もクトナー・ホラは、銀鉱脈発見以前のように、鉛と亜鉛が採掘され続けました。
 また最盛期には盛んにゴシック建築の建物が建設されましたが、建設が長期に渡った聖バルボラ教会はバロック建築の様式も取り入れられ、しかしルネサンス期にボヘミア王国自体が衰退したためルネサンス建築の建物はほとんど見られないそうで、中世ヨーロッパの雰囲気を街全体に残した、静かで古き良き観光の街となっているようです。

 ヨーロッパの多くで中世時代の建物が失われたのは、二度に渡る世界大戦も大きな要因ですが、その頃のクトナー・ホラが政治面や経済面において重要性を失っていたことも、当時の建物が多く残った理由だと思われます。もちろんクトナー・ホラ自体も、前述のようにたびたび戦禍に見舞われていますが、銀の経済力で比較的短期間で回復したことも大きかったでしょう。

 1995年、クトナー・ホラの歴史的建造物は隣町セドレツにある聖母マリア大聖堂と共に世界遺産に認定されました。
 銀と共に栄え、かつてはボヘミア第二の都市とまで言われながらも、銀と共に衰退し、顧みられなくなったが故に中世の歴史を今日まで残し伝えることが出来た町。禍福は糾える縄の如しと申しますが、クトナー・ホラの歴史もまた数奇なものと言えるのではないでしょうか。


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