ボードゲーマーに贈る「白鷺城」の歴史的背景
ボードゲーム「白鷺城」とは
CMON JAPAN/米DEVIRから発売されたボードゲーム「白鷺城(原題:The White Castle)」は、江戸中期の姫路城を舞台に、新たな城主・酒井忠恭に取り入るべく、城内のあらゆる役職に息のかかった部下を送り込むダイスプレイスメントです。
日本有数の名城として知られ、1993年12月には世界文化遺産にも登録された姫路城。白い漆喰の美しさから「白鷺城」の別名を持っています。でも英題だとただの白い城なのは、ちょっと味気ないですね。Wikipedia英語版によると、「白鷺城」を正確に翻訳すれば「White Egret Castle」または「White Heron Castle」になるそうで、ゲームのタイトルとしては冗長に感じるんでホワイト・キャッスルにしたんでしょうか。
私は地理が苦手なので、姫路城(と言うか姫路市)が何処にあるか大人になるまで知らなかったんですが、兵庫県姫路市は岡山と大阪の県境のちょうど中間辺り、瀬戸内海沿いにあります。現在はGoogleマップのおかげで軽率に場所を調べることができて、インターネット様々ですね。
と言う訳で今回は、舞台となる姫路城の歴史と、城主の酒井忠恭について見ていこうと思います。
姫路城ができるまで
姫路城が現在建っている場所には、元々「姫山」と呼ばれる山があり、平安時代後期の1143年に天台宗の寺院「姫道山 称名寺」が建てられました。
約200年後、南北朝時代の1346年、播磨国の守護(行政官)だった赤松氏によって称名寺は山麓へ遷され、姫山に防衛拠点となる城「姫山城」が築城されます。姫山城が実際にどのような城だったかは分かりませんが、当時の一般的な城は、山頂に建てられたちょっと大きめの屋敷みたいなものだったので、姫山城も恐らく似たようなものだったでしょう。
後に赤松氏は拠点を別の城へ移し、姫山城は一族の小寺氏が城主となりました。
その後、応仁の乱(1467年~1477年)と前後する混乱期に城主は山名氏、赤松氏、小寺氏と入れ替わりますが、1545年、城主だった小寺氏は別の城へ移り、家臣の黒田重隆に姫山城を任せました(他の家臣との共同管理説もあるようです)。黒田重隆・職隆父子の時代、1555年から1561年の間に姫山の地形を生かした姫山城の拡張工事が行われたようですが、このときはまだ現在の姫路城ほどの規模ではなかったそうです。
黒田重隆の孫・孝高の時代になり、織田信長の配下である羽柴秀吉が中国地方の毛利氏攻略を始めると、京都と中国地方に挟まれた播磨国は毛利軍に付くか織田軍に付くかで二分します。このとき小寺氏は毛利軍に付いて没落しますが、小寺氏の家臣でありながら織田軍に通じた孝高はそのまま秀吉の配下となり、姫山城を秀吉に譲ったそうです。
その後、秀吉が連戦連勝で播磨国を平らげると、孝高は姫山城を本拠地とするよう秀吉に進言します。それを受けて1580年、秀吉は姫山城を大改修し、同時に城の名を「姫路城」と改めました。また南側に城下町を整備し、姫山の北側を走っていた山陽道を城下町のある南側へ曲げるなど、現在の姫路城と姫路市の基礎を築くことになります。
1582年、本能寺の変により信長が死亡。続く山崎の戦いで明智光秀を討ち果たした秀吉は、天下統一の拠点として新たに大坂城を築城し1583年に移りますが、要所である姫路城は秀吉の身内を城主に据えました。
1600年、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、徳川家康の娘婿で東軍の功労者・池田輝政に姫路城が与えられます。輝政には西国大名の見張りと牽制の役割も与えられたため、姫路城は1601年から8年かけて大改修が行われましたが、完成した新たな天守は東南方向に傾いており、これを自身の設計ミスと悔いた棟梁は自殺します。この頃に城下町や周囲の村々も整備され、元々姫山にあった称名寺も「姫路山 正明寺」と改め、現在の地に落ち着いたそうです。
姫路城と城下町の整備は、財政難や難工事もあって輝政の跡を継いだ本多氏の時代まで続き、全容がほぼ完成したのは1618年のことでした。
酒井忠恭と姫路騒動
築城から長らく姫路城の城主は安定しませんでしたが、1749年、前橋藩から酒井忠恭が転封して以降、幕末まで酒井氏が城主であり続けました。
酒井氏は家康以前の時代から松平氏(徳川氏)に仕えてきた重臣で、徳川四天王の一人として知られる酒井忠次、4代将軍・家綱の時代に権勢を振るった大老・酒井忠清、江戸幕府最後の大老・酒井忠績などを輩出してきた名家です。
酒井忠恭は、古い時代に酒井忠次の酒井氏(左衛門尉家)と分かれたもうひとつの酒井氏(雅楽頭家)の14代目です。雅楽頭酒井氏は6代目重忠のとき、1590年に豊太閤の命令で家康が江戸へ移った際に武蔵国の川越城を与えられ、後に上野国に与えられた領地と合併して前橋藩主となりました。
しかし前橋藩は、武蔵国と上野国の領地を合わせた時点で8万5000石、その後加増され忠恭が藩主になった頃には15万石になっていましたが、幕閣としての必要経費や家格を維持する費用に苦しんでいたうえ、利根川の氾濫が頻繁に起きたため、財政はかなり苦しかったそうです。5代藩主・忠挙の頃から前橋城まで浸食されるほどの被害を受け財政が圧迫されており、領地替えを何度も願い出ていたそうですが、前橋藩主としては9代目の忠恭の頃まで、領地替えは却下され続けていました。
石高は要するに税収額を示すもので、全く同じ領地でも生産力が変われば石高も変わります。歴史上、公称の石高と実際の石高が違う事例はそこそこありましたが(例えば徳川御三家の水戸藩は公称25万石→35万石、実高20万石ほど)、前橋藩の場合は実際の石高が低かった、あるいは度重なる利根川の氾濫によって以前より下がっていたのかも知れません。
参考までに、前田氏の加賀藩が100万石なのは有名ですが、黒田氏の福岡藩は52万石、井伊氏の彦根藩は1633年時点で30万石、本多氏は転封を繰り返し1769年の岡崎藩の時点で5万石(10万石格)だそうです。前田氏や黒田氏のような外様大名には高い石高を与えて不満を抑え、井伊氏や本多氏と言った譜代大名は領地の石高が低い代わりに幕府の要職に就くなどの好待遇がされていたそうなので、譜代大名の酒井氏は後者だったんですね。
忠恭の頃の領地替えは家老・本多光彬や年寄・犬塚純則らが中心となって活動し、公称の石高が同じくらいで実際の石高が前橋藩より多いと見込まれた姫路藩を目標に定め、藩主の忠恭も乗り気だったそうです。唯一、家老・川合定恒が、かつて家康から預かった領地を手放すことに頑なに反対したため、彼に内緒で他の家老たちが幕閣に工作し、結果、1749年、当時は松平氏(家康の次男・結城秀康の血統)が治めていた姫路藩との領地替えが決定します。
川合定恒も藩主・忠恭の説得で領地替えをようやく了承したようで、準備のため先行して姫路藩へ向かいました。
しかし肝心の姫路藩は、前年に朝鮮通信使の接待役を仰せつかって出費が嵩んだうえに領内が大旱魃と台風に襲われ、年貢の延納は認めたものの減免は認めなかったため、不満が爆発した領民による大規模な一揆が起きていました。しかも一揆の最中に当時の藩主が36歳の若さで死去。僅か11歳の長男が藩主を継ぎますが、幼年の藩主では西国の要所を管理する姫路藩の務めを果たせないので領地替え、と言う前例ある不文律が酒井氏の思惑と一致し、1749年1月に領地替えが決まったのでした。
年貢の更なる延納を認めた触書により一揆も一旦は収まっていましたが、藩主が酒井氏に変わると聞いた姫路藩の領民は、延納の約束が反故にされることを恐れて再度一揆をおこし、姫路藩は大混乱。酒井氏の姫路藩への転封は、一揆の影響が収まる5月まで待たねばなりませんでした。
そして川合定恒が姫路藩で主君や家臣の受け入れ準備をしていた最中、7月に姫路城下を流れる船場川が台風による大雨で決壊。家屋流失161戸、溺死者402人を記録する大水害となります。このとき川合定恒は独断で、姫路城に避難民を収容し、備蓄米を被災者に分け与えたそうです。しかし同年8月にも台風に襲われ、3000人余りの死者を出すほど大きな被害を受けました。
2年連続の大災害により姫路藩の年貢収入は大きく落ち込み、転封に必要な費用も加わって、酒井氏の財政はますます悪化したとか。ただ、当時の酒井氏は財政に関して割といい加減だったようで、前橋藩や姫路藩で治水工事や財政改革に類する努力をした形跡はなかったようです。
転封と災害の後始末が終わった1751年、川合定恒は本多光彬と犬塚純則を自邸に招くと、二人を殺して自害しました。この事件は「姫路騒動」と呼ばれているそうです。川合定恒が何故二人を殺したのかは分かりませんが、やはり家康から預かった前橋の地を手放す「不忠」を藩主に唆した二人と、それを了承した自身が許せなかったのかも知れませんね。
川合氏はこの「姫路騒動」で一度断絶しますが、息子の代に河合姓での再興が認められます。川合定恒の孫である河合道臣は40代で諸方勝手向に任じられ藩の財政改革に着手。当時の姫路藩は73万両もの累積債務がありましたが、質素倹約や新田の年貢減免、特産品の専売などを行った結果、彼は27年の歳月をかけて藩の負債を完済させたそうです。
余談ですが、領地替えにより前橋藩に移った松平氏は、利根川の氾濫によって本丸倒壊の危機にまで達していた前橋城を(財政難もあって)廃城とし、幕府の許可を得て川越城へと移り川越藩となりました。
どのみち前橋藩のままでは駄目だった、と言うことでしょうね。
姫路城・危機一髪
城が住居であった江戸時代には、どの城も都度補修や修理が行われていましたが、大抵は場当たり的なもので、費用の問題や維持の必然性の低さ等から壊れたまま放置された箇所も少なくなく、更に黒船来航を契機とする幕末の戦乱が、日本各地の城を荒廃させました。それは姫路城も例外ではありません。
尊王攘夷運動から日本が倒幕派と佐幕派に分かれると、酒井氏は幕府重臣の立場から佐幕派になったため、1868年、姫路城が新政府軍に包囲され、攻撃の危機に晒されます。実際、新政府軍を構成する池田氏率いる岡山藩が、姫路城に威嚇砲撃を行い、城の南西に位置する福中門にその一発が命中したそうです。
新政府軍の攻撃が始まれば姫路城の破壊は必至、と言う状況でしたが、兵庫津(現在の神戸)の豪商・北風正造が15万両もの大金を新政府軍に献上して時間を稼ぎ、その間に城を預かる家老たちは無血開城を決定。こうして姫路城は破壊を免れました。
1867年の徳川幕府の大政奉還後、姫路城は国有となり軍事建築物として陸軍省の管理下に置かれますが、1871年の廃藩置県により住人がいなくなると、老朽化と維持費が問題となりました。1873年には廃城令が発布し、姫路城も廃城が検討されたそうですが、結果的に民間に払い下がられます。しかしその後、再度国有化され(一度払い下げられた後に再度国が買い上げたようですが、当時の権利関係に不明瞭なところがあるそうで、実際に払い下げられたのかも不明なようです)、一部は軍用地として再整備され、建物の取り壊しや兵舎の増築などが行われました。
その後も姫路城の老朽化は進み、名城の喪失を憂えた陸軍少佐・飛鳥井雅古が1877年12月に、陸軍省第四局長代理・中村重遠大佐も1878年12月に保存を上申し、これらを受けて1879年1月、陸軍省の負担によって名古屋城と共に姫路城を修復保存することが決定しました。
1879年と翌1880年に支柱の補強工事が行われましたが、それだけでは不十分でやがて倒壊寸前の状態となったため、市民運動が高まり、1908年に姫路市民により白鷺城保存期成同盟が結成されます。この同盟が政府や議員に陳情した結果、1910年から翌1911年にかけて「明治の大修理」が行われ、倒壊の危機は去りました。
1928年、姫路城は史跡に指定され、陸軍省から文部省へ移管し(実際には委託を受けた姫路市が管理していました)、1931年には旧国宝に指定されます。とは言え、姫路城の敷地内に作られた軍事施設はそのまま引き続き運用されていました。それらの施設には歩兵第10連隊や歩兵第39連隊、第10師団師団長官舎、第8旅団司令部と言った重要な軍事施設も多々ありました。
1934年9月、室戸台風による豪雨で櫓や石垣の一部が損壊したのを機に、翌1935年2月から再度の修復工事が始まります。しかし同年8月の雨で別の石垣が崩壊したことから、修復計画は全面的に見直され、結果、全ての建物を一度解体し修復・再構築すると言う、大規模かつ根本的な修復が執り行われることになりました。いわゆる「昭和の大修理」です。
それから間もない1937年、盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発。このときアメリカは「日本の中国侵略に抗議」すべく1911年に締結した日米通商航海条約を破棄し、義勇軍の形で軍を送り中国(当時は中華民国)を支援しました。そして1939年5月、ノモンハン事件が勃発しソ連軍も戦線に加わるなど、戦争が長期化の様相を呈する最中、同年9月には独軍がポーランドに侵攻します。第二次世界大戦の勃発です。
1940年の日独伊三国同盟によって、日米の対立が決定的になると、周辺に重要な軍事施設を置く姫路城の目立つ白壁が米軍の爆撃目標になることが懸念されるようになり、1941年9月、姫路城の白壁を偽装的に黒く見せる「偽装網」が試験的に取り付けられました。藁を編んで網にし、コールタールで黒く染めたもので、当時の写真も残っています。
1941年12月の真珠湾攻撃を機に日米の直接交戦となる太平洋戦争が開戦し、1942年4月のドーリットル空襲により日本本土が米軍の爆撃を受けると、その懸念はより現実的なものとなり、同年5月には全ての白壁に偽装網が取り付けられました。このとき設置された網を掛けるための釘は、偽装網が取り除かれた現在も残っているそうです。
その後の戦局悪化を受けて、姫路城の修復工事は1944年に中断。1945年7月、姫路市が遂に米軍による空襲を受けます。この空襲は夜間だったため視認性が悪く、当時のB-29の機長の一人は後年、姫路城の存在を知らなかったこと、姫路城に対する指示は受けていなかったこと、姫路城を視認できなかったこと、外堀の水を確認し姫路城付近を沼地と判断し爆撃しなかったことなどを語っています。しかし敷地内にあった旧制中学は爆撃により焼失しており、天守閣にも焼夷弾が直撃しましたが、運良く不発だったため当時の見習士官によって城外で爆破処理され、焼失を免れました。
翌朝、空襲で焼け出された人々は姫路城の無事な様相を見て、涙を流し喜んだそうです。
なお姫路城から焼夷弾を運び出した士官の方は戦後もご存命で、小学校の教師となって児童文学の編集に携わる傍ら、平和運動や不発弾処理の活動を続け、2012年に亡くなりました。
昭和の大修理
終戦後の1949年、姫路市長らにより白鷺城修築期成同盟が結成、政府に姫路城修復費の請願書が提出されたことで、国および兵庫県・姫路市の補助による修復が決定。太平洋戦争で中断していた修復計画は、翌1950年から再開されました。
また1950年に施行された文化財保護法に基づき、1951年に国宝に指定されたこともあり、戦後の修復作業は文部省の直轄で行われました。
姫路城の大天守が東南方向に傾いていることは前述しましたが、修復計画中断前の1941年、京都大学教授が2本の心柱の傾きを計測しており、修復計画の再開後となる1953年に同教授が改めて心柱の傾きを計測したところ、1941年の計測時より傾きが5cmも大きくなっており、遠からず倒壊の恐れがあったため、大天守の修復には入念な準備が必要でした。
天守以外の修復は1956年3月末までに完了し、同年6月から大天守の「巣屋根工事」が着工します。
「巣屋根」とは建物を雨風から守るための覆いとなるもののことで、主に屋根の工事に際して架けられます。姫路城ほどの規模になると巣屋根工事だけで翌1957年3月までかかり、その後の大天守解体は1958年までかかりました。この解体工事中、貴重な歴史資料が多く見つかり、天守の築造過程が判明したそうです。
そして大天守の傾きを是正すべく、基礎工事が行われます。そもそも大天守が傾いた原因は、基礎となる岩盤の高さが足りない部分に土を盛っていたのですが、その盛り土の突き固めが不十分で石垣の重さに耐えられず、地盤沈下を起こしていたのです。そこで元々の礎石や盛り土を取り除き、鉄筋コンクリートの基礎を岩盤の上に直接築くことで、大天守の傾きは改善されました。また、同様の地盤沈下が起きないよう、瓦の軽量化も図られたそうです。
新たな大天守の組み立て工事は1959年から開始しますが、この工事で難航したのは、大天守を支える2本の心柱でした。この修復工事では再利用できる資材は全て再利用する方針でしたが、東西の心柱のうち、西の心柱は中が腐って再利用できなかったため、新たな柱を用意する必要があったのです。腐った西の心柱は2本の木を継いで作られたものでしたが、東の心柱は1本の木で作られており、新たな西の心柱も1本の木で作ることになります。姫路城を支えられる大きさと長さの木を探すのに困難を極め、やっと候補の木を見つけて切り出したものの、1本目は伐採中に、2本目は輸送中に折れてしまいます。そこで止む無く、2本目と3本目の木を合わせて、以前と同じ2本の木を継いだ心柱が作られました。
しかし大天守を組み立てる段階になり、意外な事実が分かりました。姫路城の構造上、同じ長さの心柱を2本立てるのは無理だったのです。もし2本が同じ長さであれば、搬入作業の時点で柱同士が干渉して痛み、また2本の柱が倒れないよう同時に支えながら作業するのは困難です。もし柱が倒れてしまえば確実に痛みますし、倒れたとき折れてしまえば作業も中断せざるを得ません。これが片方の柱を分割することで、搬入時点での柱同士の干渉が防げ、また2本の柱を支えるのも短い1本が先に安定するので安全かつ効率的に作業できたのです。
設計ミスを悔いて自殺した棟梁、実際には設計ミスどころか緻密に考え抜かれた後世まで評価される素晴らしい仕事をされていましたよ。
1960年、大天守の木組み作業は無事終了し、上棟祭が行われます。一般住宅で言う棟上げですね。一戸建てが新しく建つとき、柱や鴨居など木枠だけの状態で屋根から餅撒きしてるの見たことないでしょうか? あれです。
その後の作業は順調に進み、大天守に付随する小天守や台所などの設備も修復され、1964年3月末までに姫路城の修復は完了しました。
世界遺産と木の文化
日本が世界遺産条約を批准したのは1992年のことで、直後に姫路城は奈良の法隆寺と共に世界遺産に推薦されます。両者とも翌1993年に晴れて世界遺産登録されますが、このとき問題になったのは、アジアにおける「木の文化」を世界遺産としてどのように評価すべきかという点でした。
世界中の価値ある文化財を保護し後世へ遺すことを目的とする世界遺産条約は、1960年のアスワン・ハイ・ダム建設が切っ掛けとなり、1972年に締結されましたが、当初は欧米中心の条約でした。
どういうことかと言うと、欧米は石造建築物の多い「石の文化」であるため、世界遺産もオーセンティシティ、すなわち信頼性や真実性が重視されていました。要するに「本当にその時代に作られたもの、その時代に存在したものなのか?」と言うことですね。
しかし木造建築物は石造物ほど長持ちせず、定期的な修復が必要になり、時には腐った部分の交換などが必要です。となると、腐って部品を交換した木造建築物は「信頼性」「真実性」を保持していると言えるのか? 400年前に建てられ、その後修復を繰り返した姫路城を、本当に「400年前に建てられた」と言って良いのか? いわゆる「テセウスの船」ですね。
しかし創建当時の姿を保っている姫路城や法隆寺が「パーツを交換したから文化的価値は無い」とは言えないでしょう。むしろメンテナンスのために当時の技術を現代まで遺したり再現したりする必要があったのですから、当時の技術が失われたストーンヘンジやナスカの地上絵、モアイ像などよりも余程「技術の保存に貢献した」と解釈できます。
こうして欧米の価値基準に偏重していた世界遺産の登録基準に、姫路城と法隆寺は一石を投じることになり、その結果1994年に「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」が採択されます。ざっくり言えば「欧米的な価値基準に沿わないものでも、現地で文化財として価値を認められるものなら世界遺産に登録できますよ」と言う感じの内容です。
600年以上前、県知事的な人物が自分の治める地を守るための拠点として建てた小さな山城が、時を経て日本の要所となり、それを守ろうと努力した人々のおかげで世界にその価値を認められ、あまつさえ国際的な多様性社会への先鞭をつけたとも言えるのではないでしょうか。
そう言えばさらっと流しましたが、姫山城を秀吉に譲り拠点として整備させた黒田孝高とは、後に福岡へ転封し福岡藩の基礎を築いた黒田官兵衛(あるいは黒田如水)その人です。つまり官兵衛がいなければ、姫路城は「白鷺城」ではない、小さな山城のままで終わっていたかも知れないですね。
流石は我らが官兵衛様です(隙あらば地元礼賛)。
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