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ボードゲーマーに贈る「マラケシュ(ズライカ)」の歴史的背景


ボードゲーム「マラケシュ」とは

 仏Gigamicより発売されているボードゲーム「マラケシュ(原題:Marrakech)」は、絨毯じゅうたんを敷いて陣取りを行いつつ、盤面を動き回る共有駒を上手く誘導して他プレイヤーからショバ代を徴収するゲームです。
 「マラケシュ」と言うタイトルのボードゲームはデザイナーと出版社が異なる複数の作品が存在しており、本記事で紹介している「マラケシュ」はドミニク・エルハール作で2007年に発売されたものになります。また、独Zochが「ズライカ(原題:Suleika)」と言うタイトルで発売していた時期もありました。

 他の「マラケシュ」タイトルのボードゲームには、1996年に独Kosmosより発売されたシュテファン・ドラ作の「マラケシュ(原題:MarraCash)や、2022年に英Queen Gamesより発売されたシュテファン・フェルト作の「マラケシュ(原題:Marrakesh)」などがあります。ちなみにフェルトの「マラケシュ」はムーンスリーから日本語版が2024年8月に発売されています。

 日本の出版社からは発売されていませんが、2024年現在の版には箱裏に収録言語を示す国旗が描かれており、私が購入した版には日本語ルールも収録されていました。なので「日本語版がないゲームはちょっと……」と言う方も箱裏を確認してみると良いでしょう。

 タイトルにもなっている「マラケシュ」はアフリカ大陸北西端のモロッコにある都市です。1040年頃に勃興したムラービト王朝(アルモラヴィド朝)によって1070年に帝都として建設され、「モロッコ」と言う国名の由来にもなりました。

 ゲームの「マラケシュ」は絨毯市場を舞台としていますが、マラケシュ、ひいてはモロッコが、何故絨毯の有名地になったのか。今回はその辺りの歴史的背景を見ていこうと思います。

GO GO WEST!

 まず、モロッコと言う国がどの辺りにあるかと言うと、北アフリカ西岸です。エジプトが北アフリカ東岸なので、エジプトを西へ行けばモロッコに行き当たる感じでしょうか。名前はよく聞きますが、地理に疎いのでどの辺りにあるかはちゃんと知らんかった。
 アラビア語での国名は「アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ」、通称「アル・マグリブ」だそうで、この「マグリブ」とは「日の没する地」「西方」を意味し、元々はアフリカ大陸の北西地方を意味するのだそうです。その中でも最北西に位置するモロッコは、極西を意味する「アル=マグリブ・ル=アクサー」とも呼ばれていたとか。
 つまり、唐(中国)から西へ向かえば天竺(インド)に到着しますが、エジプトから西へ向かえばモロッコに到着する訳ですね。そう言えばかつて聖徳太子は我が日本を「日出づる処」と称しましたが、それと対を成すような国名とも言えます。

 またモロッコ最北部は、ジブラルタル海峡を挟んでヨーロッパ大陸のイベリア半島(スペイン)と目と鼻の先にあり、ジブラルタル海峡の最狭部は僅か14キロメートルなので、紀元前から人々の往来があったようです。
 モロッコには元々「ベルベル人」と呼ばれる原住民が住んでいましたが、紀元前9世紀頃、故郷を失い東方から来たフェニキア人に侵略されます。彼らによって港湾都市が築かれ貿易で栄えた後、紀元前2世紀にフェニキア人国家が古代ローマ帝国によって滅亡し、古代ローマ帝国の支配地となりました。フェニキア人の侵略を受けたベルベル人は、内陸部に逃れ別の王国を築いていましたが、フェニキア人国家滅亡と共に古代ローマ帝国の支配下に入り、古代ローマ帝国のキリスト教化に伴いベルベル人もキリスト教化しました。
 その後も各国各民族によるモロッコ争奪戦は続き、8世紀初頭に東方から来たイスラム帝国ウマイヤ朝が征服して以降、モロッコはイスラム教化されたそうです。

マラケシュ大地に建つ!!

 イスラム教化後も、イスラム教徒同士の勢力争いで王朝は入れ替わり、イスラム教徒であるベルベル系の遊牧民族を母体としたムラービト朝(アルモラヴィド朝)が1056年に成立します(前述した「1040年頃に勃興」と言うのは、ムラービト朝の前身となった宗派の興った時期で、彼らが正しいイスラム教の在り方を求めて城塞に籠ったことから「城塞ラバートに拠る人々」を意味する「ムラービトゥーン」が王朝名の由来になったそうです)。その首都として時の指導者アブー・バクル・イブン・ウマルによって、マラケシュが建設されました。
 マラケシュの建設年については諸説あり、1962年説と1070年説とが有力なのだそうです。

 ここで時は少し遡りますが、マラケシュ建設以前の同地は、石器時代からベルベル人が農耕生活をしていたらしく、付近の地域から当時の石器が大量に出土しているとか。
 アブー・バクルがこの地に来た頃は牧草地だったようで、いつ頃から牧草地になったのかは調べてもよく分かりませんでした。あるいは農耕と牧畜を一緒にやってたんでしょうか? なおアブー・バクルはこの地に来る以前、マラケシュからやや南東にあったアグマ市(アグマート市とも)に住んでいました。

 この頃のモロッコは前述のイスラム教徒同士の勢力争いにより、事実上分割統治状態にあったようで、当時のマラケシュ周辺地域はMaghrawaと言う民族が治めていました。この民族が首都としていたのがアグマ市で、2024年現在は遺跡が残るのみですが、当時は商業都市として大変に栄えていたそうです。
 アブー・バクルはアグマ市の事実上の統治者で大富豪だった女性ザイナブ・アン=ナフザウィヤと結婚、首長として妻を支えました。しかし戦士かつ砂漠の遊牧民族気質の強かったアブー・バクル自身が大都市での宮廷生活に馴染めず、そこでアグマ市から程近いテンシフト川南岸沿いの牧草地で野営し、そこを生活拠点とします。
 統治者であるアブー・バクルが定住するようになった野営地は、やがて遊牧民のテントではなく石造りの建物が建ち並ぶ街となり、マラケシュと呼ばれるようになりました。建設当初のマラケシュには、アブー・バクルの故郷である南方から持ち込んだナツメヤシが植えられ、砂漠の中にあるオアシスの街の様相を呈していたと言います。

 そもそも伝統的なイスラム教の在り方に疑問を呈していた新興王朝ムラービト朝にとって、9世紀頃から周辺地域の首都として栄えていたアグマ市は旧来勢力が強く首都に相応しくなかったのです。アブー・バクルがアグマ市を出たのは、アグマ市旧来の権力構造を打ち捨てるべく首都を移転する意図もあったようです。そして首都がマラケシュへ移転するとアグマ市は徐々に衰退し、それでも19世紀頃までは住民がいたようですが、2024年12月現在は完全に遺跡だけとなっているようです。
 なおマラケシュと言う都市名の由来には諸説ありますが、ベルベル語で「神の国」を意味する説が有力だそうで、多くの観光案内サイトや旅行記ブログなどで「神の国を意味する」と書かれています。

 と言うことで、結論から言えば「マラケシュは絨毯産業が盛んだった」と言うより、旧首都であったアグマ市から首都機能が移転したことで、アグマ市の商業都市としての物流もそのまま受け継いだ、と言うのが正しそうな感じです。
 しかし、その後のマラケシュの変遷も気になるので、その辺りを辿ってみたいと思います。

変転する首都マラケシュ(※長文)

 マラケシュの建設から間もなくアブー・バクルは南方の反乱鎮圧のためマラケシュを離れることになり、その際に妻ザイナブを連れていくのは無理と判断して離婚し、従兄弟のユースフ・イブン・ターシュフィーンに妻とマラケシュを任せます。
 ザイナブは「魔術師」と呼ばれるほどの交渉術の達人でもあったため、彼女の再婚相手となったユースフは彼女の助けでアブー・バクルに並ぶ指導者として知られるようになり、反乱を鎮圧しマラケシュに戻ったアブー・バクルに多くの褒賞を(ザイナブのアドバイスに従って)与えて南方へ「再派遣」し、首長としての地位と権力を確立したそうです。
 ちなみにこの頃、ジブラルタル海峡を挟んでモロッコの北に位置するイベリア半島(スペイン)にもイスラム勢力が進出していましたが、キリスト教国(カトリック)であるカスティーリャ王国やアラゴン王国に押されていました。
 ユースフはマラケシュを整備し「預言者ムハンマドと同様」と賛辞され、更にイベリア半島の同士に求められて派兵し、イスラム系の小国が割拠していたイベリア半島南部を統一し支配権を確立したそうです。そしてこの頃がムラービト朝の最盛期となりました。

 ユースフが亡くなると、有力な後継者が現れなかったことでムラービト朝の勢力は衰え、腐敗したムラービト朝のイスラム教を改革すべく12世紀初頭に新たな宗派であるムワッヒド集団(アルモハード朝)が興ります。
 ムワッヒド集団の指導者となったアブドゥルムウミン(アブド・アルムーミンとも)率いる軍はマラケシュを巡ってムラービト朝との攻防を繰り広げ、1147年にマラケシュを占領しムラービト朝を滅亡させます。
 当時イスラム教国では、王朝が変わるたびに前王朝の建造物を破壊して新王朝の建造物を建てる慣習があったそうで、ムラービト朝を滅ぼしたムワッヒド朝もマラケシュの建物の大半を壊して新たな建物を建造したとか。しかし僅かながらムラービト朝時代の建造物が現代まで残っており、そのひとつであるマラケシュ旧市街の「クッバ・バアディン(クバ・アル・バディンとも)」霊廟から、ムラービト朝時代のマラケシュの面影を偲ぶことができるでしょう。宗派が異なるとは言えイスラム教の霊廟なので、破壊しづらさはあったのかも知れません。

 ムワッヒド朝の時代には、クッバ・バアディンから南西に900mほど離れたところにクトゥビーヤ・モスクと言う礼拝堂が建てられました(マラケシュ占拠直後、1147年のことだそうです)。この礼拝堂に併設されたミナレット(鐘楼に相当する尖塔)は、まだイスラム教徒がイベリア半島南部を支配していた時代、12世紀末にセビリアに建てられたミナレットのモデルとなりました。セビリアのミナレットは後にキリスト教会の鐘楼に転用され、今日こんにちでは「ヒラルダの塔」として知られています。

 セビリアのヒラルダの塔は、スペインや東ヨーロッパ各地に建てられた鐘楼のモデルになったそうですが、ヒラルダの塔をモデルに建てられた鐘楼の現物についてはよく分かりませんでした。ただ、モスクワの赤の広場にも存在するとの情報があったのでググってみたところ、赤の広場に臨む大時計塔スパスカヤ塔(フロロフスカヤ塔)がそれのようです(ただしスパスカヤ塔とヒラルダの塔との関係がググっても出てこないので、実際のところは不明です)。
 ムワッヒド朝の時代に建てられ現代まで残るマラケシュの建造物は、他にアグノウ門(1188年~1190年頃)があるそうです。

 しかしムワッヒド朝は13世紀初頭、ムハンマド・ナースィルの時代にイベリア半島でキリスト教勢力に敗北したことで衰え、ナースィルの死後(1213年)に幼少の息子ユースフ2世が首長となると権力争いが活発化、更にユースフ2世が後継者のないまま亡くなる(1224年)と事実上の分裂内乱状態に陥ります。
 首都であったマラケシュは「権力者の拠点」として争奪戦が繰り広げられることになり、ナースィルの兄弟イドリース・マアムーンやユースフ2世の弟(マアムーンの甥)ヤフヤー・ムウタスィムが互いを追い出し占領し合います。このとき、イベリア半島から駆け付けたマアムーンがムワッヒドの核となる宗教理念を放棄し、更に和解したキリスト教徒の傭兵部隊を連れていたことで、ムワッヒド朝の権威は失墜。マラケシュを占拠したマアムーンが1232年に死去すると、夫人は息子のアブドゥル・ワーヒド2世を首長に据えるべく、キリスト教徒の傭兵部隊への見返りとしてマラケシュの街そのものを明け渡そうとしますが、マラケシュ市民が50万ディナールと言う多額の報酬を支払い、それを回避したそうです。もしマラケシュがキリスト教徒へ明け渡されていたら、現在とは全く違った街になっていたでしょうね……
 なおムワッヒド朝の権力争いは、そのアブドゥル・ワーヒド2世がムウタスィムを討って終結しますが、イスラム教徒からの尊崇は既に失っていました。そりゃ母親が首都を異教徒に明け渡そうとしたら……ね。

 そんなムワッヒド朝の混乱中に、ムラービト朝滅亡に際してムワッヒド朝への従属を拒否した独立勢力のマリーン族やザイヤーン家が勃興します。またムワッヒド朝の宗教理念を放棄しキリスト教勢力に頼ったマアムーンに代わり、ムワッヒド朝の真の宗教理念、真の正統性を再興する名目でムワッヒド朝の提督がハフス朝を立ち上げます。
 ムワッヒド朝はこれらの新興勢力への対応に忙殺されることになり、1269年、マリーン朝にマラケシュが征服されたことで滅亡します。
 このマリーン朝はモロッコ北部、マラケシュから北東へ400kmほど離れた旧都フェズを首都と定めたため、相対的にマラケシュは衰退していきます。これはマラケシュから旧権力を切り離すための首都移転だったそうで、かつてアグマ市から旧権力を切り離すべくマラケシュが建設されたのと同じ発想だった訳ですね。このため、マリーン朝時代にはマラケシュの建造物の大規模な破壊や改築は行われなかったそうです。

 しかしムワッヒド朝末期に国は事実上分裂しており、マリーン朝の他に前述のザイヤーン朝やハフス朝、イベリア半島南部のイスラム教国であるナスル朝に分かれていました。
 マリーン朝は、それらの王朝との主導権争いで一時は優位を得ましたが、14世紀後半になると王位と実権を巡る内乱で衰退し、そこへ地方総督だったワッタース家が官僚を送り込み首長と婚姻関係を結び台頭するようになります。これに危機感を持った時の首長アブド・アル=ハック2世はワッタース家の勢力を排除したものの、代わりにユダヤ教徒を登用したため国民の反発を招き、最終的にアル=ハック2世が1465年にフェズ市民に殺害されたことでマリーン朝は滅亡しました。その後はシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)が指導者となりましたが、1472年にワッタース家に取って代わられました。
 マリーン朝末期にはいわゆるレコンキスタ(キリスト教徒によるイベリア半島の再征服)も進み、その勢力の一部はジブラルタル海峡を越えモロッコ の港町にまで及んでいました。交易拠点たる港をキリスト教徒に押さえられたことで経済的に衰退し、内乱による国内の政情不安もあって、モロッコの内陸部には自警や救済を求めて「聖者」を中心とする同胞団が次々と結成されたそうです。あれですか、後漢末期に現れた太平道(黄巾賊)みたいなもんですかね(突然の三国志脳)。
 バヌー・サアド族もそんな同胞団のひとつで、元々はモロッコ南部のドラア川流域を拠点にしていたそうです。彼らは勢力を拡大し続け、1511年、マラケシュの南西200kmほどに位置する、当時ポルトガルの勢力下にあった港町アガディール奪還のためポルトガル軍に挑み、奪還はならなかったものの対ポルトガル勢力として一気に周辺の小規模同胞団群の支持を集め、彼らを取り込むことになったそうです。

 バヌー・サアド族とその一団は勢力を拡大し続け、1525年にはマラケシュを占領、1541年にアガディール奪還を果たし、ポルトガル勢はアガディールの北に位置するマラケシュの北西150kmの港町サフィーからも引き上げたそうです。
 こうして南モロッコを統治したサアド朝は古都マラケシュを拠点とし、北モロッコを統治しフェズを拠点とするワッタース朝と対決することになります。
 当時ポルトガルを圧倒していたサアド朝に対し、ワッタース朝はポルトガルから港町を取り戻そうとして幾度も失敗しており、疲弊して勢力が衰えていました。そのためモロッコの人々はサアド朝を支持するようになっており、更に1554年9月に起きた戦いでワッタース朝の首長だったアリー・アブー・ハサンがサアド朝に敗れて戦死、ここにワッタース朝は滅亡します。マラケシュは名実ともにモロッコの首都へと返り咲いたのです。

 サアド朝の拠点としてのマラケシュは、再び旧時代の建築物が破壊され新たな建築物が建てられますが、首長はムワッヒド朝時代の城塞カスバに居住していたそうです。
 その後サアド朝の首長争いが元で、それに乗じたポルトガル軍とサアド朝が1578年8月にクサール・アルケビールで激突します。

 アルカセル・キビールの戦い(マハザン川の戦い)と呼ばれたこの戦いでポルトガル軍は歴史的大敗を喫し、時のポルトガル王セバスティアン1世は行方不明、国を追われポルトガルに助けを求めた前首長アブー・アブドゥッラー・ムハンマド2世と、ムハンマド2世から首長位を簒奪したアブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世は共に戦死します。
 そして激戦を生き延びアル=マリク1世を継いだ弟アフマド・アル=マンスール(アフマド・マンスール・ザハビー)は、ポルトガル軍捕虜と引き換えに得た莫大な身代金でマラケシュに贅を尽くした新たな宮殿の建設を始めます。これが今日こんにちでも知られる旧市街のエル=バディ宮殿で、かつてイベリア半島にイスラム勢力があった頃に建てられたアルハンブラ宮殿をモデルとしており、アル=マンスールが首長になってから逝去するまでの25年間に渡り建造が続けられたそうです。
 アル=マンスールは優れた治世者としてサアド朝の全盛期を築きましたが、年齢を重ねるにつれ失政も目立つようになり、彼の死後は息子や孫たち、かつてサアド朝に従った同胞団などが権力争いを繰り広げ衰退していきます。その結果、サアド朝の核であったバヌー・サアド族は乱立する他の同胞団と同レベルにまで影響力が落ち、サアド朝は自然消滅。代わりに台頭したのが、13世紀後半にアラビア半島から移住したと伝わるアラウィー家でした。

 アラウィー家はサアド朝時代の乱立する同胞団の中にあって、言わば傭兵のように各同胞団を軍事的に支援し、その勢力や影響力を拡大していったそうです。
 1669年、アラウィー家の首長ムーレイ・アル=ラシードがマラケシュを占領すると、サアド朝時代のマラケシュの建造物を取り壊し、エル=バディ宮殿も放棄してフェズを首都とします。アラウィー朝は2024年現在まで続いていますが、首都移転後もマラケシュは衰えることなく、首都機能を持つ要所として商業的に栄えています。
 アラウィー朝時代のマラケシュの建造物としては、バヒア宮殿が良く知られているでしょう。1860年代に、首長ムハンマド・イブン・アブド・アルラフマーンの大宰相シ・ムーサによって建設されたものだそうです。

 しかし19世紀頃から、近代化を果たした欧米の列強諸国にモロッコは脅かされるようになり、19世紀末から20世紀初めにかけて、外国人の排除と政府の打倒が叫ばれるようになります。日本の江戸時代末期、いわゆる幕末と時代も状況も重なりますが、日本とモロッコには大きな違いがありました。
 幕末史を簡単に振り返るだけでも、日本は黒船来航から尊皇攘夷派と幕府の対立を経て大政奉還、江戸城無血開城、戊辰戦争、西南戦争と、内乱はあったものの最終的には明治政府としてまとまり、欧米文化を取り入れ近代化に成功、日露戦争(1904年~1905年)でロシアに勝利し欧米諸国を驚愕させるまでに至りました。
 しかしモロッコは1911年、外国人排除に失敗、反乱鎮圧を口実にフランスに首都フェズを占領され、フランスやスペインの保護領――事実上の植民地――となりました。アラウィー朝は首長の地位を保ちましたが、フランスやスペインの傀儡とならざるを得なかったそうです。モロッコの人々はその後も反乱を起こしましたが、フランスやスペインによって全て鎮圧されました。マラケシュも反乱が原因で1912年にフランスに占領され、多くの市民が虐殺されたそうです。
 モロッコが再独立する1956年までの44年間、マラケシュは親フランス派のベルベル人であるグラウア族の首長タミー・エル・グラウイを知事パシャとしていたそうです。そして(事実上の)フランス統治時代に市街が拡張されると、それまでのマラケシュ市街は「旧市街」、フランス統治時代に拡張された市街は「新市街」と呼ばれるようになりました。

 モロッコ独立後のマラケシュは、1960年代から1970年代初頭にかけて「ヒッピーの聖地」としてイヴ・サンローラン、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、石油王ジャン・ポール・ゲティの孫であるジャン・ポール・ゲティ3世と言った著名人が滞在し、国際的な注目を集めるようになります(マラケシュが何故ヒッピーの聖地扱いされたのかはよく分かりませんでした)。この頃からモロッコ有数の観光地となり、特にフランスをはじめとする海外資本によって観光整備されたようです。 1985年にはマラケシュ旧市街がユネスコ世界遺産に登録され、その文化的価値が国際的に認められたのです。

 こうやってマラケシュの歴史を辿ってみても、首都や首都に次ぐ主要都市みたいな話ばかりで、絨毯が特産物みたいな話は出てこないので、ボードゲームとしてのマラケシュ(ズライカ)は、名産物の絨毯をモチーフにしたと言うより絨毯を取引する「市場」としてのマラケシュがモチーフになっているのでしょう。
 実際、ボードゲームのマラケシュ(ズライカ)は絨毯を売り買いする訳ではありませんからね。

余談:ズライカ is 何?

 ところで独Zoch社がこのゲームに付けたタイトル「ズライカ」の由来を確認してみたところ、ズライカ(Suleika)はドイツ語圏における女性名だそうで、ことドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが著した『西東詩集』に登場する女性の名として知られているようです。
 残念ながら私はこの独Zoch社版を持っていませんが、お持ちの方によるとルールブックに「主人のスルタンから娘ズライカの結婚相手となる富豪を探せ!と命令を受けたオマール(共有駒の名前)が絨毯市場へ出向いた」と書かれているらしく、オマールくんご苦労様です……つか、それだと別にタイトル何でもいいんじゃね?(禁句)


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