ボードゲーマーに贈る「チューリングマシン」の歴史的背景
ボードゲーム「チューリングマシン」とは
すごろくや/加Le Scorpion Masquéより発売されているボードゲーム「チューリングマシン(原題:Turing Machine)」は、あらかじめ穴の開いた「パンチカード」を用いて秘密の3桁の数字を導き出す推理ボードゲームです。
タイトルにもなっている「チューリングマシン」とは、現在のコンピュータの理論上の基礎となった抽象機械のことで、考案者のアラン・チューリングから名を採ったものです。
このボードゲームは、単に名前を借りただけでチューリングの抽象機械とは直接関係していませんが、最初期のコンピュータでプログラムを記録するのに使われた「パンチカード」と似たものを用いるなど、いくつかの要素がモチーフとして取り入れられています。
時には昔の話を
昭和40年代から50年代、特撮やアニメなどでは謎の計器がたくさん付いた巨大コンピュータから、ところどころに穴の並んだ紙テープが出てきて、それを読むなんて場面がよくありました。子供の頃は、あんなんから何が読めるんだろうと不思議に思っていましたが、いざコンピュータの勉強をしてみると、あれが「実際にちゃんと読めるもの」であることが分かり、感動を覚えたものです。
その原理を簡単に説明すると、文字を番号に変換し、穴の有無による二進数で表したのです。現代では穴の代わりに白黒模様を使って同じことをしており、言わばバーコードやQRコードの御先祖様だったりします。
紙テープは文章の間違ったところを物理的に切り貼りして修正していましたが、言うまでもなく面倒な作業なので、何文字か毎に区切ってカード型にすることで、文章の修正作業や組み換え作業を容易できるようにしました。それがコンピュータ・プログラムを記録する「パンチカード」です。ただ紙テープもパンチカードも「人間が普通に読める文字が併記されていなかった」ため、カードを使う順番を間違えると大変なことになりました。どちらにも利点と欠点があったわけですね。
そんな紙テープやパンチカードをコンピュータがどうやって読み取っていたかと言うと。紙を破らない程度の力で棒を穴に差し込み、棒が通るか通らないかで穴の有無を判断していました。
紙テープの場合、この「穴の有無を確認する棒」が櫛の歯状に横並びになっており、棒が通る通らないでスイッチをオンオフしていました。この「スイッチのオンオフ」の仕組みも、現代では棒などの物理的な道具は使わなくなりましたが、IC(集積回路)やLSI(大規模集積回路)の中で電子制御によって同様のことを行っており、やはり現代のコンピュータの御先祖様と言える仕組みになっています。
アラン・チューリング以前
パンチカードの穴の有無で機械を物理的に動かす、と言う仕組みは2023年現在でもジャガード織機と言う自動織機で利用されています。この織機の原型は1801年、フランスの発明家ジョゼフ・マリー・ジャカールによって作られました。
それ以前にも、12世紀末から13世紀初頭にアラブ人発明家アル=ジャザリーが、カムシャフト(楕円形の厚手の円盤を軸に通して回すと、円盤に押された物体が上下する、幼児の手押し車みたいなアレ)を組み替えて音楽を自動演奏させる機械を発明したそうですが、こちらは組み替え可能なオルゴールと言った風情です。
その後イギリスの数学者チャールズ・バベッジが1812年、手計算による誤った対数表を見たことを切っ掛けに、単純な計算を間違わずにできる蒸気機関式の計算機械の開発を思い立ちました。彼は1822年、計算機械の具体的な設計を始め「階差機関」と名付けましたが、資金難などにより未完成のまま、2023年現在イギリスのオックスフォード科学史博物館に保管されているそうです。バベッジはその後、パンチカードを用いた汎用性の高い計算機械である「解析機関」を考案し、1837年から1871年に亡くなるまで改良を続けたとか。こちらも資金難などで現物の完成には至らなかったようです。
1833年、イギリスの数学者ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング、通称「エイダ・ラブレス」は友人を通じてバベッジに紹介され、師弟関係を結びます。彼女は1842年から1843年、解析機関に関するバベッジのイタリア講演の内容をイタリア人数学者が出版したものの翻訳を手掛けました。このときエイダは本文以上の膨大な訳注を付けましたが、これにパンチカードを使った解析機関用のプログラムが含まれていたことから、彼女は「史上初のプログラマ」とも言われました。このプログラムは実際にはバベッジが組んだものでしたが、エイダはプログラムのバグを指摘し、更に解析機関が「新たな音楽を作曲できる」可能性を秘めていることを書き残しています。
しかしバベッジとエイダの後継はおらず、その後しばらく機械式計算機の発展は停滞します。
進展が起きたのは1888年、アメリカの国勢調査局(当時)が、統計作業を効率化するためアメリカ人発明家ハーマン・ホレリスが考案した集計システムの採用を決定してからでした。
ホレリスは大学時代にパンチカードを記録媒体とするシステムを研究していましたが、大学卒業後、当時の統計部長に誘われ、1880年の国勢調査の集計作業に途中参加します。この集計作業には9年もかかったそうです。そしてアメリカの国勢調査は10年毎に行われるため、次の国勢調査は1890年。急激な人口増加により現状の方法では集計作業に約13年かかると予想され、次の次となる1900年の国勢調査までの終了が見込めなかったことから、ホレリスは大学時代の研究を応用し、専用のパンチカードに基づいて集計する機械を開発します。この機械により、1890年の国勢調査の集計作業は僅か18ヶ月で終わったそうです。
この機械は国勢調査以外の統計調査にも応用が利くものだったため、ホレリスは会社を設立して各国にこの機械とパンチカードを販売し、更にパンチカードに穴を開ける専用のキーパンチャーや、タビュレーティング・マシンあるいはユニット・レコード機器と呼ばれる専用プリンタも開発販売しました。これを機に同様の機械が同業他社からも発売されるようになり、日本でも1920年の第1回国勢調査で「似た機械」が試用されたとか。
またホレリスの設立した会社は1911年に他の会社と合併してC-T-R社となり、徐々に事業の中心をパンチカード関連のものに集約したそうです。同社は1924年に社名をInternational Business Machines Corporationと変更しました。これが現在のIBM社です。
チューリング・マシン
数学の世界ではしばしば、「○○は数学的に成立するか否か」と言った問題が数学者から提示されることがあります。これらの成否を数学的に証明することで、新たな数学の定理を発見し、数学が発展するからです。
簡単な例を挙げれば、「直角三角形の三辺の長さをそれぞれabcとしたとき、斜辺(最も長い辺)cとその他の辺abの長さの関係が、a²+b²=c²(aの二乗+bの二乗=cの二乗)になることを証明せよ」と言った感じの奴です。……まさか三平方の定理を習ってないとは言いませんよね?
1900年、第2回国際数学者会議にて、ドイツ人数学者ダフィット・ヒルベルトが当時まだ数学的に証明されていなかった10の問題を提示しました。彼がこのとき提示した問題はごく一部で、実は全部で23問あったため、これらの問題は「ヒルベルトの23の問題」「ヒルベルト問題」などと呼ばれ、20世紀の数学の発展に大きく寄与しました。
そのヒルベルトが1928年に「決定問題」と呼ばれる問題(ぶっちゃけ私もよく分かってないので解説は省きます)の解決を呼びかけ、1936年にイギリスの数学者アラン・チューリングが、解決の下地となる論文を発表しました。
チューリングが発表した論文は、簡単に言えば「そもそも計算できるってどういうことよ?」を定義するものでした。それまでの「計算」は抽象的で概念的な文章で表されていましたが、これを形式的で段階的な手順を踏む機械的な「アルゴリズム」で表現することを提示したのです。その「アルゴリズム」を実行する機械として定義されたのが、仮想計算機「チューリング・マシン」でした。
チューリング・マシンは「ヘッダを動かしテープを読み書きするだけ」と言う極めて単純な構造ながら、機械として決まった動作しかしない(できない)ため、ある問題が「チューリング・マシンで結果が出る」ものであれば計算可能、そうでなければ計算不可能、と明確に定義できるようになりました。それは同時に、「計算のアルゴリズムが定義できるか否か」を判定する機械でもありました。これは現代の我々に身近な様々な電子機器の、ごく基本的な動作原理でもあります。
またアルゴリズムと言う概念は計算だけでなく、今日ではコンピュータ・プログラミングにおいて「プログラムの骨子となる流れ」としても使われ続けています。
この「チューリング・マシン」の概念を受けて、1937年にはベル研究所のジョージ・スティビッツがリレー式加算器「Model K」を、1941年にはコンラート・ツーゼがプログラム式の自動計算機「Zuse Z3」を完成させており、他にも用途を特化したアイオワ州立大学「ABC」や英国中央郵便本局研究所「Colossus」などと言った自動計算機も制作されました。
数学嫌いな輩がよく宣う「数学が何の役に立つ?」と言う質問がありますが、数学がなければ我々の身近にある数々の電子機器は、未だ生まれてなかったかも知れないのです。
エニグマ暗号
1918年、ドイツ人発明家アルトゥール・シェルビウスによって「エニグマ暗号機」が開発されます。暗号化・復号化(暗号を元に戻すこと)は「鍵」があれば容易な反面、鍵なしでの復号化が非常に困難であったことから、1925年には当時のドイツ軍に正式採用されました。
当時は1918年に第一次大戦が終結し、1939年に第二次大戦が勃発するまでの言わば戦間期。第一次大戦の反省から1920年に国際連盟が発足したものの、提案国であったアメリカ合衆国が加盟せず活動も消極的、1929年にはニューヨークで株価の大暴落が起き世界恐慌の引き金となり、社会不安から支持を集めたドイツのナチス党が1933年に政権与党になるなど、世界的な政情は不安定で、いつ戦争が勃発しでもおかしくない状況でした。
1932年、ポーランド軍所属の数学者たちが専用解読機「Bomba」を開発しエニグマ暗号を解読すると、それを知ったドイツ軍が暗号機の改良を行ったため、解読に10倍の手間がかかるようになります(手間がかかるだけで解読自体は可能でしたが、戦争がいつ勃発するとも知れない状況で、10倍の手間をかける時間の余裕はありませんでした)。そこで第二次大戦勃発から間もない1939年秋、ドイツの侵攻を受けていたポーランドは新たなエニグマ暗号解読のためイギリスと協力することになり、1940年にはアラン・チューリングの設計による改良型の汎用解読機「Bombe」が導入されました。「Bombe」による解読は総当たり式でしたが、ドイツ軍の暗号書を入手するなど他の解読手段と併用することで、以後終戦までエニグマ暗号をタイムリーに解読し、連合国軍の勝利に貢献します。前述の英国中央郵便本局研究所が開発した「Colossus」も、第二次大戦中に開発・使用された暗号解読専用機であり、エニグマ暗号の解読にも使われていたようです。
しかし連合国側がエニグマ暗号を解読したとドイツ軍に知れると、ドイツ軍が暗号を変えるのは間違いありません。そこでエニグマ暗号の解読について戦時中はもちろん戦後になっても徹底的に秘匿され、そのせいで解読に多大な功績のあったチューリングらも戦後は不遇に遭います。特に同性愛者であったチューリングは「同性愛と言う罪」で地位を追われ、最終的には1954年に青酸中毒によって死去しました。部屋には以前から実験用の青酸が置いてあったそうですが、自殺か事故かは不明です。
しかしチューリングの死から20年を経た1974年、当時の関係者への取材を元に書かれた本が出版されたことでチューリングの功績が知られるようになり、記念プレートが設置されたり彼の伝記映画が作られるようになります。そして21世紀初頭、イギリス政府からの謝罪や当時の女王エリザベス2世による恩赦が発効したことで、彼の名誉は完全に回復しました。
余談:ノイマン型コンピュータ
ここからは完全に余談ですが、ダフィット・ヒルベルトの弟子のひとりに、原子爆弾やノイマン型コンピュータの開発者として知られるジョン・フォン・ノイマンがいました。
彼は第二次大戦中、連合国側合同の原子爆弾開発計画「マンハッタン計画」に参加した数学者の一人でしたが、その最中にアメリカ陸軍が弾道計算のために開発していた電子計算機「ENIAC」の存在を知ります。
ENIACはペンシルバニア大学のジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーによって開発されましたが、これはコンピュータ本体の配線を物理的に変更してプログラミングすると言う、非常に手間のかかるものでした。しかしENIAC開発中に得た様々な知見から、ノイマンがENIACを知った頃には後継機となる「EDVAC」の構想が既に浮かんでいたそうです。ノイマンはコンサルタントとして彼らと合流し、1945年にはEDVACに関する報告書を公表します。ここに書かれた電子計算機が、「ノイマン型」と呼ばれるプログラム内蔵型コンピュータです。
それ以前の機械式計算機はパンチカードや磁気テープと言った記録媒体からプログラムを読み込みながら逐次実行していました。要するに物理的なインタプリタですね。しかしそれでは計算機の動作速度が物理的な読み込み速度に制限されるため、より高速に動作させるため、事前にプログラムを読み込ませておき、それを実行する方式が考案されました。メモリにプログラムを置いてそれを実行すると言う方式は、私たちにとって身近な「パソコン」や「スマホ」のプログラム実行形式そのままで、私たちの知るコンピュータの直接的な祖先と言えるでしょう。
しかも当時は軍事機密に等しかったコンピュータの報告書が部外者にも配布されたと言う、極めて異例の事態であり、ここから現代のコンピュータが発展したと言っても過言ではないでしょう。
しかし、この報告書はノイマン単独の署名であったことからエッカートとモークリーの反発を呼び、EDVACの開発技術者が次々とプロジェクトから抜け、EDVACの完成が遅れる要因となります。このためプログラム内蔵型かつ全電子式の機械式計算機の完成はマンチェスター大学が開発したウィリアムス管(ブラウン管の一種)の試験機「SSEM(マンチェスター・ベビー)」に、実用目的のものとしてはケンブリッジ大学が開発した「EDSAC」に遅れを取ることになりました。これらはいずれもノイマンの報告書の影響を受けているとされ、また「EDSAC」は世界初のアセンブラ機能を搭載するなど、今日見られるコンピュータの原初の形をしていました。
ノイマンはその後も戦略ミサイルや核兵器開発に携わり、その結果被曝して癌を発症、1957年に死去しました。
エッカートとモークリーはプロジェクトから抜けた後、コンピュータ会社を設立し、アメリカ初の商用コンピュータ「UNIVAC I」を開発するなどコンピュータに関して多大な業績を残しました。彼らの会社は合併や買収などを経て、今日ではアメリカでも有数のIT企業ユニシスとして存続しています。
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