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ボードゲーマーに贈る「花札」の歴史的背景


「花札」とは

 花札は(説明するまでもないでしょうが)日本の伝統的なカードゲームです。「花カルタ」とも呼ばれ、その名の通り、日本の各季節を象徴する12種の植物が伝統的な絵柄で描かれた札です。同種の植物の札は4枚あり、手元の札を出して場にある同種の札を取り、取った札の組み合わせで役を作る「花合わせ」が代表的な遊び方でしょう。

 花札自体は日本各地で作られており、複数の製造会社がありますが、代表的な製造会社は誰もが知る世界的企業・任天堂でしょう。創業時は「任天堂骨牌かるた」と言う社名で、創業当初は花札を製造していたため、時には「京都の花札屋」と揶揄されることもありました。
 なお任天堂は今でも花札を製造しており、伝統的な絵柄の花札の他に「マリオ花札」も製造しています。

 任天堂の他には、同じく京都にある大石天狗堂と言う会社が伝統的な花札や「千と千尋の神隠し花札」などのキャラクター花札を、

 ジグソーパズルなどで知られるビバリーがマスターシリーズのひとつとして「マスター花札」を、

 同じくジグソーパズルなどで知られる「やのまん」が水木しげる先生の妖怪をモチーフとした「妖怪花あそび」や刀剣男士をモチーフとした「刀剣乱舞-ONLINE-花あそび」と言ったキャラクター花札を発売していたりします。

 ただ花札と言うとギャンブルのイメージも根強く、知ってはいても遊んだことのない人もいるでしょう。今では花札をモチーフとしたゲームアプリも多種多様に存在しており、金銭を賭けずとも遊べる環境は整っていると思います。
 今回は知っているようで意外と知らないだろう花札の歴史を見ていきたいと思います。

日本のカードゲームの夜明けぜよ!

 そもそも古代の日本で遊ばれていたボードゲームには、奈良時代に中国経由で伝来した双六や囲碁、将棋と言ったものの他に奈良時代に大流行した変則的な双六ゲーム「かりうち」、平安時代末期から遊ばれ始めた二枚貝を使った神経衰弱ゲーム「貝合わせ」などがあります。が、カードを用いたゲームはまだ存在していませんでした。

 カードを用いたゲームが日本に伝来したのは、ヨーロッパ人が初来日した16世紀中頃、室町時代末期から戦国時代頃のことで、カードを意味するポルトガル語「carta」から、日本ではカードやカードを用いた遊びを「カルタ」と呼ぶようになりました。なので漢字表記の「歌留多」や「骨牌」などは、その当て字です。
 当時のヨーロッパは大航海時代の始まった頃で、長い航海の退屈を凌ぐために船員たちはトランプで遊んでいたそうです。
 そんなトランプを真似て日本でカルタが製造され始めたのは16世紀末とされ、福岡県大牟田市三池には「日本のカルタ発祥の地」として「市立三池カルタ・歴史資料館」が設立されています。三池以前のカルタらしき版木も発見はされていますが、カルタそのものの現物が発見されておらず、現存する最古の国産カルタに「三池住貞次」の銘が書かれていることから三池が国産カルタの発祥とされているそうです。
 当時のトランプをそのまま真似て作られたカルタは「天正カルタ」と呼ばれ、棍棒♣・刀剣♠・金貨♦・聖杯♥と言う4種のスート、1〜9の数札と3枚の絵札の計48枚で構成されていたそうです。「あれ、10の数札は?」と思うかも知れませんが、ポルトガルのトランプは10の数札がない「ラテンタイプ」と呼ばれる種類のトランプが当時から現代まで一般的なのだそうです。
 ちなみに現代日本で一般的なトランプは、10の数札があり抽象化と画一化がされた「英米アングロアメリカンタイプ」と呼ばれるトランプで、その元となった「フランスタイプ」では12枚の各絵札に特定の人物が当て嵌められ、更にフランスタイプの元となった「ドイツタイプ」は絵札のイラストや4種のスートが抽象化されず写実的に描かれたものになっているそうです。

広がるカルタの世界

 こうして日本に伝来したカードゲームは「天正カルタ」となり、西洋と同様にもっぱらギャンブルとして遊ばれたようで、1597年に長宗我部元親が「博奕ばくちかるた諸勝負」を禁止した記録が残っているそうです。ギャンブルが大流行すると社会秩序が乱れますからね、群雄割拠、下克上の戦国時代とは言え領地を治めるには必要な措置だったでしょう。考え方によっては、それだけ人々が娯楽を求めていたと言えるかも知れません。
 なお長宗我部元親が禁止令を発布した頃は豊臣秀吉の命による朝鮮出兵の時期(文禄の役:1592年~1593年と慶長の役:1597年~1598年)と重なっており、また、やはり時期の重なる1595年に日蓮宗の日源上人が故郷・越前の紙漉き技術を福岡の三池地方に伝えているそうです。
 これらの事実から、朝鮮出兵時に佐賀県唐津市が拠点となったこともあって多くの兵士が周辺地域に集い、退屈しのぎに天正カルタが遊ばれるようになって、三池でカルタの製造が盛んになったと推測されています。カルタが全国へ広まったのも、恐らくはこのときの兵士たちがカルタを故郷へ持ち帰り遊び方を広めたからでしょう。

 その後、伴天連追放令(1587年)など当時のキリスト教排除の影響もあって天正カルタのイラストは西洋風から和風に変化し、より大人数で遊べるようスートや絵札を増やし数札9枚、絵札6枚、スート5種の計75枚で構成される「うんすんカルタ」へと発展したようです。この辺りの経緯はうんすんカルタが文献に記録されないまま廃れてしまったのでハッキリ分かっていないようですが、熊本県人吉市でうんすんカルタが伝統的に遊ばれてきたことで、今日こんにちまで命脈を繋ぐことができたそうです。
 なお、うんすんカルタは人吉市では「備前カルタ」と呼ばれており、由来は備前から嫁いできた姫君の持参品だったとか言い伝えられているそうで、かつてはそれなりに広く遊ばれていたことも伺えますね。

 元の姿を保った天正カルタの方は、徐々に元となったヨーロッパ製のトランプより小型化していき、やがて今日こんにちの花札や株札の大きさになります。
 2024年11月現在、当時のヨーロッパ製トランプは日本では発見されていませんが、ヨーロッパで発見された1567年ベルギー製のトランプは縦92mm×横60mmだそうで、岐阜市歴史博物館が所蔵する天正カルタの版木(で作られた硯箱)のカードサイズは縦74mm×横41mm、南蛮文化館(大阪市北区)が所蔵する手描きの天正カルタは縦73mm×横45mm、神戸市立博物館が所蔵する天正カルタの版木(で作られた重箱)のカードサイズは縦63mm×横34mm、2019年にサントリー美術館で展示された個人蔵の天正カルタは縦53mm×横32mmだそうです。任天堂が発売している花札は縦53mm×横32mmなので、小さいほど年代が新しいものと推測されており、天正カルタがだんだん小型化しているのがよく分かります。
 小型化した理由は謎ですが、「日本人に扱いやすい大きさにする」「携帯性を高める」ためと推測されています。
 また、前述通り天正カルタは日本では異色の絵柄だったため、持っていると「キリシタンである」との誤解を受けることもありました。そして天正カルタを使った賭博が横行したため、長宗我部元親の禁令以降もたびたび大名や江戸幕府によって禁止令が出されています。なので天正カルタが小型化していったのは、「隠しやすくする」と言う目的もあったかも知れません。

 それでも元禄時代(1688年~1704年)頃までは築後国の名物に三池カルタ(三池産の天正カルタ)が挙げられるほどだったようですが、やがて三池でのカルタ製造はすたれ、かるた製造の中心地は京都に移ったようです。三池でのカルタ製造が廃れた理由は分かりませんが、たびたび発布されたカルタ禁止令の影響は少なかったでしょう(禁止令が本当に守られていれば、1年~3年ごとに「かるた博奕諸勝負堅御法度」が発布されるはずはありませんからね)。
 なお1707年10月に日本史上最大級の地震である宝永地震、同年11月に富士山の宝永大噴火と大きな自然災害が立て続けに起こっており、あるいはこの時期カルタで遊ぶような余裕が社会から失われていたのかも知れません。地理的にも三池はあまり物流の良い場所ではないので、災害やその他の理由で生活が苦しくなった製造業者が、より物流に優れ需要が見込める大都市・京都へ越していった可能性もあります。

 また、同じく元禄時代に日本古来の神経衰弱ゲーム「貝合わせ」と融合した、我々が一般に知る「カルタあそび」が誕生したようです。要するに2枚1組となるカードの、片方のカードの情報を基にペアとなるカードを探すゲームですね。伝統ゲームと融合し賭博性の薄れたカードゲームへと変化したのは、カルタ禁止令の影響もあったのかも知れません。
 このタイプのカルタの代表は、「小倉おぐら百人一首」と「いろはカルタ」でしょう。
 小倉百人一首は、元来はカルタのことではなく、平安末期の歌人・藤原定家が選抜した100首の和歌のことでした。元々は山荘のふすまに貼る色紙しきしに書くために選抜されたと言われ、当時は「小倉山荘色紙和歌」などと呼ばれていたようです。なお「小倉」は京都の小倉山のことで、これらの和歌を書いた色紙は「小倉色紙」と呼ばれ30枚ほどが現存しているそうです。
 和歌は上の句(五七五)と下の句(七七)に分けられるので、当初は上の句だけ書かれた札と下の句だけ書かれた札の組み合わせを探すものだったそうで、「歌カルタ」とも呼ばれました。

 少し話は戻りますが、神経衰弱ゲーム「貝合わせ」は元々同じ貝殻の内側に同じ絵柄が描かれていましたが、後に貝殻の内側に和歌の上の句と下の句が分けて書かれたタイプのものが登場し、この和歌が書かれたタイプの貝合わせは「歌貝」と呼ばれています。二枚貝は「特定の貝殻のみペアになる」ことから夫婦和合の縁起物とされており、そんな二枚貝を使った歌貝は上流階級の間で嫁入り道具とされるようになりました。現代でも雛飾りの嫁入り道具の中に、歌貝を入れる「貝桶」が含まれるものがあり、その名残を伝えています。
 しかし歌貝のために材料のハマグリが乱獲されたようで、江戸時代初期の歴史家・黒川道祐が山城国地誌『雍州府志』に「伊勢桑名で大きなものが獲れなくなったので(今は)朝鮮の貝を使う」と残しているそうです。そのためか、後世の歌貝では将棋の駒のような五角形をした木札や金箔を貼った厚紙を用いるようになります。現代の小倉百人一首もその系譜から発生したものでしょう。
 ちなみに現代でも北海道各地で、取り札(下の句だけが書かれた札)が木で作られた「下の句カルタ」が伝統的に遊ばれているそうで、かつての歌貝の面影をしのぶことができます。

 歌カルタは江戸初期に、当時の教養であった和歌を覚える教育目的で作られ始めたそうで、小倉百人一首の他に源氏物語や伊勢物語などを題材にしたものもあったそうです。当初は文字だけの簡素なものだったそうですが、上の句札と下の句札に挿絵が描かれるようになり、ペアとなる札を並べると一枚の絵になる豪華仕様のものも出てきたそうです。
 しかし江戸中期になると小倉百人一首を除く歌カルタは廃れ、読み札と取り札も現在知られる形になったようです。

 また享保年間(1716年~1736年)に江戸の織物・小間物問屋組合が作成した『三拾軒問屋記録控』営業品目一覧には「伊勢物語カルタ」や「うたカルタ」と並んで「絵合カルタ」なるものが記載されており、これは2枚1組となるイラストが描かれたカルタのことです。
 絵合わせカルタ以前、元禄時代に作成されたカルタの中に「貝合絵入歌カルタ」と言うものがあり、これは上の句と下の句が分かれた歌カルタに貝殻のイラストを入れペアを分かりやすくしたものだそうです。イラストがペアとなるタイプのカルタはそれ以前から存在していたので、恐らくこうしたイラスト入りの歌カルタがイラストをメインとした「絵合わせカルタ」へと変化していったのでしょう。

 教育目的で作られたカルタは、歌カルタの他に「たとえ合わせカルタ」がありました。「譬え」と言うのは比喩のことで、この場合はことわざを意味します。
 譬え合わせカルタは50組100枚セットまたは100組200枚セットのものが一般的で、一文の諺を二分して読み札と取り札に分け、小倉百人一首と同様に読み札にイラストが描かれていたそうです(当時の小倉百人一首は読み札は上の句+イラストと言う形でした)。なお譬え合わせカルタに選ばれる諺にこれと言った基準はなかったようで、順番なども特になかったようです。
 天明年間(1781年~1789年)になると、様々なものを「いろは順」で揃えるブームが起きたそうで、この頃に譬え合わせカルタも「いろは順」を導入したタイプのものが作られるようになり、その発祥は譬え合わせカルタを作っていた大坂のカルタ屋だそうです。こうして制作された「いろは譬えカルタ」はやがて江戸へ伝わり、江戸でも独自の「いろは譬えカルタ」が作られるようになります。諺の選択には「最初の一文字が異なる47種類」と言う制限しかなかったため、製作するカルタ屋によって採用された諺が異なっていたようで、中には諺ではない独自の文言を使ったいろは譬えカルタも作られたそうです。
 今日こんにちのいろはカルタの内容が関東と関西で異なったり、尾張カルタが両者の混ざったものだったりするのは、単にその地方でどの諺が好まれたのかと言う結果論なのでしょう。

それでもギャンブルは止められない

 こうして貝合わせと融合した教育目的のカルタが普及していきますが、天正カルタの系譜を継ぐ賭博用のカルタが廃れたかと言うと、そんなことはありませんでした。そりゃそうだ。
 賭博に使われる天正カルタには数字が描かれていましたが、教育目的のカルタは数字が描かれていなかったため、「札に数字が書かれているか否か」が許可の基準となったそうで、そこで数字が描かれていない札を賭博に使うようになりました。それが「株札」と「花札」です。

 株札は、天正カルタの数札に描かれた棍棒/杖♣を、極限まで抽象化し単なる長方形にした札です。数字を直接書いてはいませんが、長方形の「棒」の数でどの数字か分かるようになっています。またレアなタイプですが、棍棒/杖♣ではなく金貨♦を抽象化した「豆」「小丸」等と呼ばれる円を描いた札も見られ、今日でも「小丸札」は京都の大石天狗堂から発売されています。
 スートを1種に絞ったため同じ数札が4枚ずつ入っており、故にスートを用いない遊び方をします。その遊び方の代表と言えるのが「おいちょかぶ」でしょう。「おいちょ」はポルトガル語の8(oito)、「かぶ」はポルトガル語の終端(cabo)に由来し、2枚または3枚を1組とした場札の数値を合計し下一桁の数値の大きさを競う、トランプのバカラやブラックジャックに近い遊び方です。株札と言う呼び名も「おいちょかぶ」に由来しており、「株」は恐らく当て字と思われます。

 花札の発祥に関してはハッキリしたことは分かっていませんが、明治24(1891)年に刊行された越後志料『温古之栞』と言う雑誌の第14編に、「物の起源」と言うコラム記事があり、その一項で「骨牌類」が取り上げられています。このコラムでは「歌カルタは鎌倉時代の頃には既に世間に広まっていたと古書にある」などと書かれており、「花カルタは享保時代に将軍家坊主衆が発明製造したもの」と花札の発祥についても触れられています。また、コラムの続きには「(花カルタは)当初は武家の婦女子が遊んでいたが、一度廃れた後、文政年間(1818年~1830年)になって復権し、最終的に賭博に用いられるようになった」とあります。
 これを裏付ける資料が発見されていないため、この話を真実とするかには議論の余地がありますが、現代まで伝わる花札の遊び方が「同じ植物が描かれた札のペアを作るとその札を獲得できる」と言う、貝合わせや歌カルタに通じるものなので、元々は歌カルタ愛好家の間で遊ばれていたと言う話には説得力を感じます。トランプにあった「4種」のスートの概念と花札の「12種」の植物に整合性がない点も鑑みれば、天正カルタからの直系ではなく、貝合わせ→歌カルタ→絵合わせカルタ→花カルタ(花札)と言う流れで発展した方が自然に思えます。
 実際、幕末期に作られたと推測されているものですが、4枚に同種の植物を描いた札が200枚以上ある「花合わせカルタ」が存在しており、「譬え合わせカルタ」が種類数を減じて「いろは譬えカルタ」へと変遷したように、「花合わせカルタ」が種類数を減じて花札へ変遷したとしても不思議ではないでしょう。
 花札は京都を中心に全国へと広がり、「地方札」と呼ばれるその地方独自の多彩なヴァリエーションがあったそうで、任天堂には現在も「地方札」の原版が保管されているそうです。
 賭博に使われるようになった花札はその後、何度も禁令が出されましたが賭場(もちろん全て違法)で遊ばれ続け、賭場に入る合図として「鼻をこする」行為が使われたそうです。「花」札を同音異義語の「鼻」とかけた合図で、それ故に長い「鼻」が特徴である天狗が花札製造業のシンボルに使われたのだそう。

絶滅危惧種・花札

 幕末から文明開化を経てヨーロッパからトランプが再輸入されるようになると、花札の販売も解禁されたそうです。しかし、1902年に骨牌こっぱい税法が導入されます。これはカルタやトランプ、麻雀と言ったギャンブル性の強いゲーム商品に対して課された税で、それらの製造も許可制になりました。製造業者が税を価格転嫁した結果、それらの商品は高級品となって売れ行きが激減、企業体力のない多くの地方札業者が倒産したそうです。こうして地方札は幻となり、花札やカルタ類はごく限られた業者しか製造できなくなります。
 骨牌税導入の背景には、外貨で補っていた日本国債の暴落があり、国際関係が悪化していた当時の日本が国家予算を確保するため、新たな税を導入したようです。
 戦後の1957年にはトランプ類税と改称されますが、1989年の消費税導入に伴いトランプ類税は廃止され、これによって事実上、花札の製造は自由化されました。

 ギャンブルに使われるようになったため違法となり、花札の記録はあまり多く残されていません。運良く現代まで残った現物から、穴だらけの花札史を推測することしか今はできないようです。
 でも何かを賭けず点数を競うだけでも、カードゲームは十分に面白いと思うのですよ。かつて「アンティ」と呼ばれるカード賭けルールがあった『マジック:ザ・ギャザリング』がアンティ・ルールを廃止したように、花札だって純粋に八八やこいこい(いやまぁ金銭を賭ける前提のルールではありますが)の駆け引きを楽しむ遊び方だってできる、とボードゲーマーな私は思う訳です。


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