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私の怒りはどこに?


先日、街録チャンネルを見ていたときのこと。





見終わってから、「ひどい!腹がたつよね!こんなことが許されるなんて!」と夫が言った。

その言葉に、私は軽くショックを受けた。

私の中になぜか「怒り」という感情はなく、「悲しみ」、「諦め」、「絶望」「どうやって解決すればいいのか途方に暮れる」、というような感情しかなかったからだ。

そのことに私は驚いた。

怒りを感じないということは、私はウイグル人のような扱いを受けても「諦め」「受け入れてしまう」「抵抗しない」側の人間だということだ。
そのことに愕然とした。

いつから私の中の「理不尽なことに対しての怒り」は、なくなってしまったのだろう。

小さい頃、「怒り」は確実に私の中にあった。
どちらかといえば短気な方で、常に何かに対して怒っていた。
「受容」するより「改革」する側にいた。

例えば、「ごみをポイ捨てする人」「掃除をしない男子」「わけのわからない校則」などに、常にいらだち、「おかしい!」と意見し、誰かに物申すような、正義感の強い子供だった。

しかし、強すぎる正義感は人とぶつかるし、敵も増える。
そんな強すぎる正義感に振り回され、自分自身で疲れてしまった私は、転校をきっかけに「嫌なことをされても笑ってうけながすようにしよう」と心に決めた。

イヤなことがあっても笑ってうけながせば、「いい人だよね」と言われるし、嫌われることはない。
周りの空気も悪くならないし、エネルギーを使って疲れることもない。
いいことしかない、と思っていた。

長年そうやって「怒り」という感情を排除し、ないことにしてきた結果、「怒り」という感情を感じにくくなってしまった。
「おかしい」という状況でも、「あの人にはあの人の考え方があるのだろう。」「こうなってしまった以上仕方ない。さてどうしよう」と冷静に受け入れるようになっていた。

受け入れるというのは、言い換えれば、俯瞰で見るということだ。
俯瞰で見るということは、距離があるということだ。
距離があるということは、熱が冷めているということだ。
熱が冷めているということは、反応が鈍いということだ。

今の私はきっと、日本が戦争をするようになったしても、すぐに抵抗や反対の声をあげることができないだろう。
「怒り」という感情を見ないようにしてきた結果、嫌なことやものを感じ取る力が麻痺してしまったのかもしれない。

そのことを急におそろしく感じた。

これは私だけなのだろうか。
もしかして日本全体がそのような感じなのではないかだろうか。

私は私の中にあった「怒り」の感情をもう一度、取り戻さなくてはならないのではないか。
「怒り」の感情をなかったことにせず、きちんと受け止めなくてはいけないのではないか。

「嫌なものはイヤだ」と頭より先に体で感じるべきなのではないか。

映像を見ながら、そんなことを思っていた。













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