新聞滅亡へのプロセス(11)~8月15日の紙面を読み解く~追記
「消しゴム」ジャーナリズム
今日もメディアは、自民党総裁選9候補の話題が多くの時間を占めている。「裏金」問題、「統一教会」との関係の問題は、すでにマイナーな争点となったような空気を醸している。
そんな中、朝日新聞は9月17日付朝刊1面に、安倍晋三元首相が2013年の参議院選挙前に、旧統一教会会長らとの面談し、自民党総裁応接室で撮影したスクープ写真を記事とともに掲載した。
自民党と旧統一教会との組織ぐるみの関係を明るみにする写真だが、メディア各社の反応は鈍い。
図書館の新聞で確認した。翌18日付の毎日、産経、東京、日経、神奈川の各紙は、岸田首相が面談報道を受け、「再三説明した」と述べ、新たな調査に否定的な考えを示した、との報道にとどまった。
読売新聞は、朝日新聞報道を無視し、「追いかけ」なかった。他紙が報じた岸田首相の発言の記事も掲載しなかった。
「裏金」「統一教会と政治」の問題は、自民党を中心とする戦後政治の構造的な問題であり、自民党総裁選の大きな争点となるべきはずだ。
日本の新聞、テレビといったマスメディアは、構造的に解決すべき問題を「一過性」の報道で片づけ、本質的な問題から離れた新たな「アジェンダ」へと足早に軸足を移す。筆者は、これを「消しゴム」ジャーナリズムとひそかに呼んでいる。
今回のブログは、個人的な体験を含めて、「8月15日の紙面を読み解く」を書くきっかけについて書きたい。
新聞博物館とマリノニ印刷機
8月8日に読んだ一本の小さな記事が筆者の記憶を呼び起こした。
朝日新聞の「100年前の輪転機『機械遺産』に」との写真付30行程度の記事だ。
横浜日本大通りにあるニュースパーク(日本新聞博物館)に展示されている東京機械製「石川式マリノニ輪転機」が、前日に日本機械学会の「機械遺産」に認定されたという内容だった。
同学会によると、この輪転機は1926年ごろに製造された現存する最古の国産折式輪転機で、印刷後の紙を、機械で四つ折りにした。印刷速度は2万4千部。86年まで使われていた。「たくさんの方にニュースパークで実物をご覧いただきたいです」との博物館を運営する日本新聞協会会長(朝日新聞社会長)中村史郎の宣伝コメントも載っている。
ネットで検索してみた。読売新聞が7月24日に同様の記事を掲載したことが分かった。
長い見出しがついている。
大正の輪転機「機械遺産」に…新聞を自動で折り込める国内現存最古の「折式」
記事内容は、新聞協会長・朝日新聞会長のコメントを除けば、ほぼ一緒だ。
「機械で四つ折り」というのは、一体、新聞何面分を一度に印刷し、それを折り込むのだろうか。記事にはその説明がない。一般読者は、この記事を読んでどの程度内容やニュースバリューを理解できるのだろう。なぜ、この記事が両紙に載ったのか。
興味を持ったので、8月9日、ナガサキ原爆投下の日に横浜で用事を済ますついでに、新聞博物館へと足を伸ばしてみた。
博物館創設の経緯
日本新聞博物館は、財団法人日本新聞教育文化財団が設立した横浜市情報文化センタービル内の博物館施設だ(現在は、日本新聞協会が運営している)。2000年10月に開館した。筆者は、この博物館の創設に職員として関わった。学芸員として歴史展示などを担当していた。
博物館の発案者は、読売新聞の元代表取締役社長・社主で日本新聞協会会長の小林與三次だった。(注1)
1980年代後半、新聞界では新聞制作機材の急激な技術革新が終わろうとしていた。ホットタイプという活字鋳造を基本とする技術からコールドタイプと呼ばれる電子的な新聞制作技術への変更だ。様々な新聞制作過程で技術革新が行われた。例えば、手書き原稿からワープロ出稿への変化もそうだ。
小林與三次は、活字鋳造機、鉛活字、組版をすぐ組めるよう活字を機能的に配置し収納するウマなど、ホットタイプの機材が廃棄されていくのを惜しみ、新聞博物館の創設を新聞界に呼びかけた。
筆者は、1980年代の終わり頃から、廃棄されていく新聞機材の収集の仕事に携わった。その過程で、化学工業日報社での使用を終え、東京機械が保存していた同機を新聞博物館に貰い受ける担当もした。
フランス製マリノニ輪転機と日本との関係は深い。明治時代の画期となる1890年(明治23)の帝国議会開設とマリノニの輸入とは密接に関係している。政府が帝国議会の議事録を官報に掲載するためマリノニの購入を計画したのに合わせて、朝日新聞も購入した。これにより朝日の印刷能力は20倍向上したという。(注2)
東京機械製の「石川式マリノニ型輪転機」は大正末から昭和初期に製作されたと言われていた。担当者として頭を悩ませたのは、歴史展示の中で、時期の違う国会開設と東京機械製マリノニをどう結びつけるかだった。結局、この輪転機を明治、大正、昭和初期を扱う歴史展示の真ん中に配置することで解決した。
読売、東京機械で影響力を増大
東京機械と読売新聞にも歴史的なつながりがある。読売新聞は1874年(明治7)に日就社が創刊。日就社は、1870年(明治3)子安峻(たかし)が横浜に創業した活版印刷所で、創刊前年に東京芝に移転していた。(注3)
一方、東京機械の源流は、1880年(明治13)の官営「三田農具製作所」にある。1888年(明治21)に、同製作所は子安峻・読売新聞初代社長らに払い下げられ民営化された。子安峻が初代業主となり、翌1889年(明治22年)に「三田機械製作所」と改称され、1911年(明治44)に株式会社東京機械製作所となった。
2021年に投資会社アジア開発キャピタル株式会社(ADC)による東京機械(TKS)の株式の買い集めが表面化した。買収を目指しADCは子会社と共同で東京機械の株式保有割合を同年9月には4割弱まで増やした。
東京機械は日本の日刊新聞約40社で現在使用中の輪転機を製造していた。このため日本の新聞界は強い危機感を持った。
新聞・通信40社は共同で9月10日、外資による東京機械株の買い占めで、輪転機のメインテナンスが滞ることに懸念を表明する書簡を東京機械に送った。この中には、共同通信、時事通信といった通信社も含まれていた。
読売新聞グループ本社(山口寿一代表取締役社長)は、ADCとの協議に乗り出し、2022年3月2日付で読売新聞東京本社など新聞6社に、保有株の32%分を譲渡することで合意。事実上、東京機械への敵対的買収を断念させた。
東京機械の株を取得した新聞社の所得割合は、読売東京本社が25パーセント、中日2.5%、朝日2%、北國1%、信濃毎日1%、北海道0.5%。
今年4月に出版された南彰の「絶望からの新聞論」には、以下の記述がある。
「読売は25%で筆頭株主となった。突出した『ホワイトナイト』の地位を読売が手にした。」
新聞・通信40社が東京機械に送った書簡にはこうある。
「国内の主要な新聞社の過半に当たる約40社は貴社製の輪転機を使用しています。輪転機のセット数(台数)で見ても、現在国内で稼働中の約430セットの大型新聞輪転機のうち、40%以上が貴社製です。
新聞は日々発行することで社会的使命をはたす媒体であり、時に号外等の臨時の印刷もあります。このため、新聞輪転機は365日いついかなる時も正常に稼働していることが必要となります。一方で複雑な仕組みの新聞輪転機には、いつ発生するかわからない機械トラブルが付きものです。」
「貴社の輪転機の開発・製造体制が変えられてしまうなどすれば、新聞各社の印刷・生産体制は致命的な打撃を受けることになります。」
朝日、毎日、産経、そして地方紙。日本の新聞が「紙の新聞」に過度に依存している限り、東京機械の筆頭株主、読売新聞の各社への影響力は新聞印刷の面でも避けられない状況となった。
東京機械のホームページには、次のアナウンスが載っている。
読売新聞社/宮崎日日新聞社と
次世代型標準輪転機を共同開発
読売新聞東京本社(本社:東京都千代田区)および宮崎日日新聞社(本社:宮崎県宮崎市)と、「次世代型標準輪転機 COLOR TOP ECOWIDE Ⅲ」の開発を共同で進めています。
開発する新しい輪転機は、今まで当社が築き上げた100年以上の輪転機製造のノウハウを結集すると共に、従来のようなメーカー主導の開発ではなく、新聞社様に新輪転機開発のプロジェクトに参画頂き、構想・開発の段階から日々輪転機をご使用されているユーザー様のご意見を最大限に反映。最先端の技術を取り入れながら、省力化・省人化に貢献できる次世代型標準輪転機の開発を目的としています。
筆者は、このブログで主張が異なる新聞社の「協業」の範囲と実態について、ジャーナリズムと経営の関係の観点から警鐘を鳴らしてきた。
読売巨人軍の本拠地、東京ドーム(後楽園スタジアム)は、2021年に三井不動産が公開買い付けを行い連結子会社とし、全株式を取得、その20パーセントを読売新聞グループへ売却した。
三井不動産は、都知事選の際にも話題に登った神宮外苑の再開発を手掛けるだけでなく、読売新聞グループなどとともに、築地市場跡地の再開発にも乗り出している。この事業に朝日新聞も「協力企業」として名乗りをあげている。
こうした読売の影響力のもとでの「協業」動きは、日本の新聞界の「危うさ」を表していると筆者は考える。しかし、それを指摘する評論を目にすることはほとんどない。
消えた「戦争展示」
日本新聞博物館(ニュースパーク)は、2000年10月、横浜市日本大通りに横浜市が運営する情報文化センター内に開館した。筆者は、開館後に数えるほどしか、博物館を訪れていない。
8月9日に新聞博物館に行くと展示は、再度変更されていた。
新聞博物館創設に向けた展示内容の検討方法は、他の博物館に比べて、かなりユニークだった。新聞各社の役員からなる新聞博物館委員会が設置され、その下に各社局次長・部長クラスの総合部会があり、運営と展示内容を扱う。その下に、展示や博物館館資料について討議、検討するいくつかの専門部会が設置されていた。
筆者は、歴史展示や運営などの実務担当者だったので、新聞歴史の監修を担当する大学教授や展示業社と打ち合わせをして、展示原案を作成し、毎月、専門部会に諮った。忙しい中、新聞・通信社委員は、毎回、ほぼ全員が出席し熱心に意見交換した。
委員の人たちと博物館を訪ねたり、個人的に他の博物館の学芸員たちと交流したが、これほど多くの人が展示内容に関わった博物館は、他に例がないのではないかと筆者は思っている。
歴史展示検討の委員は、もともと新聞記者で、疑問がある場合の質問・意見は鋭く、作業がはかどらない面もあった。
その際に状況を救う「言葉」があった。開館に向けた展示制作が切迫し展示製作スケジュールが間に合いそうもなくなる土壇場で「もう締め切りです」と伝えると、それまでの議論は、一挙に収束に向かう。そして迅速に自社紙面や資料の提供手配をしてくれる。
筆者にも月刊雑誌や週刊新聞の編集経験はあるが、毎日分単位のデッドラインで仕事する記者の「締め切り」という言葉への感覚と責任を感じながら仕事をした。
こうした委員や監修の大学教授、展示業者、同僚などの努力により、当初、歴史展示への評価は高く、1931年(昭和6)から45年(昭和20)までの戦時統制期についても、分厚い展示を行っていた。
満州国建国、国際連盟脱退、盧溝橋事件、日中戦争、太平洋戦争の歴史的紙面を展示し、新聞がどう伝えていたかを現物の紙面で実際に読める展示となっていた。新聞がどのように、国民の戦意をあおり、政府、軍部の宣伝機関化したかを伝えるため、数十の紙面を常に配置する展示を制作し解説を付した。時代の雰囲気を感じてもらうところから、来館者自らの興味、問題意識に応じて、深く内容を精査してもらえるよう工夫もした。実物紙面を展示替えする仕組みも整えた。
日本の新聞は、戦前、戦中に政府、軍部の宣伝機関化した事実を反省するとの原点に立って敗戦を契機に再出発した。政府・軍部の宣伝機関から戦後民主主義で「生まれ変わった」新聞。それが当時、新聞各社委員で構成する博物館の検討組織の展示に対する共通認識だったと筆者は考えている。その実現のためには、戦前、戦中の実態を示す多くの新聞紙面を展示することが不可欠だった。
昭和10年代に入ると、新聞界の軍部に対する抵抗は衰える。政府は国論統一のため同盟通信社を設立するとともに、内閣に情報委員会を設け情報の一元化をはかった。日中戦争が起きると国内は戦時体制に入り、陸海軍大臣の許可がない軍事関係の報道をいっさい禁止し、新聞は軍の宣伝記事で埋まる。
政府による新聞統合が行われ、昭和10年代初期に約1200あった日刊新聞は1942年(昭和17)には55社に統合された。(読売新聞と報知新聞もこの時に統合)
戦時中は、大本営発表の「戦果」が毎日掲載された。連日、相手方の兵隊も日本兵も双方の非戦闘員にも犠牲がでていた。戦時下の「日常」の紙面を読むだけで、軍による発表がほぼすべてを占めていても、今、読み返せば、当時の状況がどうだったか、数多くの情報に触れることができる。
例えば、1944年(昭和19)6月27日の読売報知新聞を見てみよう。38年(昭和13)ごろには朝夕刊16ページ建てだったのが、このころには、新聞用紙、インキ、その他資材の欠乏により、朝刊2ページのペラ新聞となった。
トップ記事は、日米両軍によるサイパン島内の激烈な戦闘だ。
「サイパン 空陸に血戦」
「逐次北上の敵猛撃」
「皇軍ガラパン町タポーチョ山の線を保持」
「随時出撃、敵の飛行場使用拘束」
「荒鷲、夜間連爆」
「地上砲火熾烈化、敵艦遊弋」
「敵機来襲も熾烈」
サイパン島の戦いは、映画でも有名となっているが、膨大な数の住民が犠牲となった戦いだった。当時の日本人の住民は2万人。日本軍は4万3千人の守備隊で米軍を迎え撃ったが全滅した。「生きて虜囚の辱めを受けず」との教育を受けていた市民は親と子供がそろって自決する事態となった。
2番手のニュースは中国戦線となっている。
紙面中央に「激流を渡河進撃する皇軍 湖南戦線」のキャプション付き写真
「衡陽陥落近し」「神速皇軍郊外に殺到」
「郊外全地域で激戦 先鋒既に三キロに迫る」
「東西シナを分断 衡陽失陥の重要性 敵の報道」
発行ページ数が減少する中、1面下には2段広告が掲載されている。
戦艦大和か武蔵と思われる戦艦のイラストとともに次の文章がある。(仮名遣いを一部変更)
御奉公の時は今
驕慢不遜の
敵米國太平洋艦隊を撃滅し
神州日本千年の大計を樹立する時は
今である。
兵器増産
食糧増産
に寄輿する諸君の奮激敢闘の
一時間は
平時の百時間・千時間に匹敵する。自分は今職場でどういう働きをしているか、また唯今より挺身せんとする職場は戦力増強に対してどういう役割を持っているか、そういう点をしっかり肝にたたんで掛からなければならぬ。諸君の今日までの生命は、今此の時お役に立つために続けられたのである。
須らく創意工夫を職域に致し且つ家庭生活に致す可きである。
▼進んでは、己が生命を鴻毛の軽きに置き
▼忍んでは、百雷轟く下強靭無比の太き神経を持つ可きである
敵をして息切れに陥らしめよ。
勝利は其の時から我等の頭上に輝くのである。
東京芝浦電気株式会社
日本石油株式会社
日本鋼管株式会社
東芝、日本石油、日本鋼管。戦中に戦意を煽った大企業は、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞と同様に、今に至るまで存続し、大きな力を持っている。
筆者は前回ブログで、2022年の「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」について書き、そのメンバーに2人の有力新聞経営者と元主筆が含まれていることに疑問を呈した。他のメンバーには、三井住友フィナンシャルグループ会長や三井住友海上火災会長など財界人もいる。また大学教授やシンクタンク理事長、元外務事務次官、防衛庁元幹部もいる。
「政、官、業、学、メディア」が結びつき、たった4回の会合で、「防衛力の抜本的強化」「敵基地反撃能力」「防衛産業の育成・強化と装備品の他国への移転」などを骨子とする報告書をまとめ、「安保改定3文書」の改定の「地ならし」をした。
筆者は、戦前、戦中の新聞紙面は、「新しい戦前」という現在の状況を読み解くのに重要だと考えている。ところが、新聞博物館は、こうした情報の提供と真逆の方向に行こうとしている。
2018年1月17日開催の日本新聞協会理事会では、新聞博物館の常設展示について審議があった。博物館活動の充実を図る一環として、常設展示のうち新聞史と新聞協会賞の展示を拡充するため基本造作を変更して改修するとの説明が、博物館特別委員会委員長の山口寿一(読売新聞東京本社社長)からあり、了承された。
同博物館は、これに先立つ2016年7月、創館当時の展示から歴史展示を大幅に縮小するリニューアルを行った。その後、来館者アンケートや有識者、新聞社からは、歴史展示の縮小を残念に思うとの意見が多く寄せられていた。
リニューアル後の資料展示では、開館当時の展示のように江戸末期の瓦版から現代に至る新聞の歴史を体系的に説明する展示になっておらず、資料の意義や面白さを伝えきれていないとの意見があった。
博物館を新人研修などで利用してきた新聞社からは、戦時中の言論統制と戦後の新聞の再出発などの歴史を若い人たちに知ってもらいたいとの考えが出された。
しかし、現状の新聞博物館を見る限り、こうした意見とは逆に歴史展示、特に言論統制時代の展示は貧弱に見える。日本新聞博物館は、戦前、戦中、戦後の膨大な現物資料を所蔵しているが、残念ながら収蔵庫に「死蔵」されたままとなっている。
筆者には、新聞界が戦前、戦中の戦争協力の歴史を「消しゴム」のように消そうとしているのではないか、とさえ思える。
8月9日に見学して驚いたのは、歴史展示内容が、創刊当時と明らかに変わっているのに、削減された歴史的展示資料の解説の文言は一字一句変わっていないことだった。2000年開館当時の解説文をそのまま使用していた。
展示解説とは、当然だが、一点一点、展示全体との関連を考慮して書く。
開館当時の歴史展示解説は、筆者が担当の大学教授の監修を受け、すべて執筆し、検討委員会の委員を目を経て展示されたものだ。
8月9日、開館当時とまったく異なるコンセプトの展示を見るなかで「浮遊」するように存在する開館当時と一字一句変わらぬ展示解説の文言を見て、「気持ち悪さ」を覚えた。
暑い日は続くが「8月のジャーナリズム」は、はるか過去になったような感覚に襲われる。
話はマリノニ型輪転機に戻る。新聞博物館は、報道の自由、ジャーナリズムに関する古今東西の言葉を紹介する展示を、マリノニ型輪転機の底部をぐるっと囲むレイアウトに変更していた。
「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」
日本国憲法21条
「言論の自由を殺すのは、真理を殺すことである」
ジョン・ミルトン(詩人)
「新聞は、政府のでなく、民主主義の番犬だ」
ウォルター・リップマン(コラムニスト)
「どの政府も嘘をつく。政府について知るべきことは、これに尽きる」
I.F. ストーン(ジャーナリスト)
「ペンは剣よりも強し」
ブルワー・リットン(作家)
戯曲「リシュリュー」より
「あなたは自由を守れ
新聞はあなたを守る」
第1回新聞週間標語
「公的な仕事とは、人々が皆で担うものである。それゆえに、人々には知る権利がある」
ハロルド・クロス(法学者)
「記者ならば、世界で一番たやすいのはネタを取ることだ。そして何よりも難しいのが、その裏を取ることだ」
デービッド・ハルバースタム(ジャーナリスト)
「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命を懸けて守る」
ヴォルテール(思想家)
大正デモクラシーから軍国主義の急速な台頭により、言論表現の自由が失われ、新聞が政府、軍部の広報機関化してゆく時代に製作され活躍したマリノニ型輪転機。その足下になぜ上記のような言葉が配されているのか、筆者には展示意図を理解できない。
ただ、次に新聞博物館に行くことがあれば、こうした言葉が、館内から消されていないことを祈りたい。
次回は、「新聞~新たな戦前への道」をアップする予定にしている。
今回の写真は、カナダ・ロッキー山脈で撮影したヘラジカ(Moose)
(注1)小林輿三次(こばやし・よそじ)1913年(大正2)7月23日~1999年(平成11)12月30日。読売新聞社主正力松太郎の女婿。富山県大門町に正力家で働く小林助次郎の三男として生まれる。東京帝国大学卒業。内務省に入省。1958年(昭和33)に自治事務次官。65年(昭和41)読売新聞社入社、翌年報知新聞社取締役。1970年(昭和45)日本テレビ放送網代表取締役社長、1975年(昭和50)日本民間放送連盟会長。1981年(昭和56)日本テレビ放送網取締役会長・読売新聞社代表取締役社長。1985年(昭和60)日本新聞協会会長
1989年6月28日~1991年6月27日まで、第8次選挙制度審議会会長。審議会の第1次答申には、衆議院の中選挙区制廃止および小選挙区比例代表並立制の導入が盛り込まれた。第2次答申には、参議院への非拘束名簿式の導入、および、政党への公的助成の導入が答申された。この審議会は、現在まで審議会の速記録が公開されていない。
博物館の機能とは、①資料を収集保存し、②研究し、③展示などを通じて発信することで、多くの人の知的好奇心を刺激し、博物館が扱うテーマの価値・役割を考えてもらうことにある。小林の呼びかけを受けて、当時の新聞界では、新聞機材にとどまらず、新聞の歴史、現在とその役割を視野に入れる総合的な新聞博物館創設が提言された。
新聞博物館の候補地として、日本での初めて日刊新聞、「横浜毎日新聞」が発刊された横浜があがり、小林輿三次と横浜市長細郷道一の会談が横浜ホテルグランドのレストランで行われた。新聞協会博物館委員長で河北新報社社主の一力一夫も同席、筆者も末席に座った。小林と細郷は旧内務省官僚の先輩・後輩にあたる。ふたりともに、戦後は自治事務次官を務めた。旧知の二人はなごやかな雰囲気で話をし、小林の要望を受け、その後、日本新聞博物館の横浜市誘致が決まった。
余談を記せば、会談後に横浜市担当者の案内で小林は、みなとみらい地区の横浜国際博覧会大観覧車のゴンドラに乗った。その際にゴンドラ内で立ち上がり、整備されてない倉庫群を指さし、そこを整備して一体的にこの地区を開発すべきとの意見を横浜市担当者に語っていた。先日、観覧車からみなとみらい地区を見る機会があったが、小林の指摘のとおり開発されている様子をみて感慨深かった(小林の言葉が地区開発に影響を与えたとは思わない)。
(注2)日本新聞通史 春原明彦 1969年 現代ジャーナリズム出版会
同書によれば、明治23年11月には、帝国議会開設をひかえ、国会記者クラブの祖、議会出入り記者団が結成されたという。
(時事新報 9月30日付)
「現在の政党党派に関係なき全国地方新聞記者諸氏が東京に会合して協議の上相連合し新聞記者の社会に対する責任を全うし且つ業務上相互の便利を計る為め今度共同新聞倶楽部なるものを設立したる」
「合議の上帝国議会の傍聴席を倶楽部に申うけ毎議会中筆記通信の事務をとり平時は各地に起こりたる重要事件を互いに報道するものなりと云う」
(注3)子安峻(天保7年〜明治31年) 日本新聞通史 P.32
岐阜県に生まれ、神奈川裁判所に通訳翻訳方として勤めるかたわら、明治3年活版印刷所日就社を設立、日本最初の日刊紙「横浜毎日新聞」にも関係する。6年日就社を東京に移し、7年11月本格的小新聞「読売新聞」を創刊、22年まで読売初代社長として経営にあたる。
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