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新聞滅亡へのプロセス(16)~2025年に想う

 2025年を迎えて、仕事や執筆から離れて、伊勢、熊野を回ってきた(注1)。このため今年はじめてのブログとなる。昭和100年に当たる今年の「旧正月」は昨日、1月29日だった。「新正月」と「旧正月」のはざまに、多様な儀式や祭そして文化の古層が残る伊勢、熊野を巡り、明治初期に和暦(太陰暦)から西暦(太陽暦)への転換は、日本文化にとって大転換だったろうと実感した。

伊勢・猿田彦神社
日本書紀・古事記に記述のある猿田彦大命


 4半世紀(quater century)という言葉がある。早いもので、21世紀になって4分の1が経過しようとしている。今回は新聞を中心の批評を離れて、思いつくままに書かせてもらいたい。

 年齢のせいかもしれないが、時の流れがますます速くなってきているように感じる。昨年の出来事はすでに旧聞に属するように思える。ガザ、ウクライナ、米大統領選挙ーー。能登半島地震、自公政権の過半数割れ、袴田さんの無罪確定など多くの国内外のニュースはもちろんだが、個人的に筆者の心に残ったのは、被爆者団体連合会(被団協)のノーベル賞受賞。そして、文化人類学者の川田順造と渡辺恒雄読売新聞主筆の死去だ。

被団協のノーベル賞受賞で考えたこと

 まず、日本被爆者団体連合会(被団協)のノーベル平和賞受賞について述べたい。

 日本では65歳以上が高齢者と定義されている。昨年9月の推計によると、日本の高齢者人口は3625万人で、人口に占める割合は29.3パーセント。ほぼ3人にひとりが高齢者となる。「若輩」の部類に属するとはいえ、筆者もその中のひとりだ。

 被団協の結成は1956年。原水爆廃止を68年にわたり訴えてきたことになる。しかし、組織としての歩みは紆余曲折を乗り越えて今に至っている。高齢の被爆者が遠路、ノルウェーに赴き、ノーベル賞授賞式で核廃絶を訴える姿に心を打たれた。歴史の証人としての義務感が溢れていた。

 市民運動が盛んになっていたころだった。筆者は18歳の時に、東京クラルテというグループが企画した旅行で、8月6日の広島を訪れたことがある。

 8月4日に、企画者が手配した貸切の夜行列車で東京を出発、原爆投下の日の前日に広島入りし、平和記念資料館を見学。夜は民宿で被爆者の経験談を聞いた。翌日は、原水禁(社会党系)、原水協(共産党系)が集会を開催した会場あとのゴミ掃除をした(注2)。

 民宿の畳の間で、淡々と語る被爆者たちの体験談は詳細にわたり、心に残った。会合が終わったあと、市の繁華街に繰り出し居酒屋に行ったのだが、そこは多くの人でごった返していた。

 8月6日の朝、民宿近くを散歩した。昔ながらの住宅街には人影がまったくなかった。道の両脇のほぼすべての家の居間から「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」NHK番組放送の音声が流れてきた。どの家でも、1945年夏の阿鼻叫喚に思いを馳せているのだと感じた。前夜の繁華街と翌朝の落差が、各家庭の30年前の忘れることのない記憶の存在を想起させた。

 あれから半世紀。原爆投下から80年の今年、8月6日の広島の街を歩くとどのような光景があるのだろうか。多分、半世紀前とは違った情景がそこにあるのだろう。

 この半世紀、政治状況の変化に多大な影響を受けてきた被団協の人たちは、同時に「風化」「無関心」という「敵」に直面し苦悶したという。

 ノーベル平和賞受賞という機会を得て、世界に向けて「核廃絶」を訴える場が与えられたことが喜ばしいと思う反面、それだけ核拡散と核保有国が暴走する危険が高まっている現実を感じる。ロシア、イスラエルなどが戦術核兵器を戦場単位での使用する脅威は、さらに増すとともに、保有国から武装勢力への流出のおそれも高まる。

 米国の原子力科学者会報は、1947年以降、毎年「世界終末時計」を発表してきた。「終末時計」は核戦争による人類絶滅の危機度を示す。ソ連が原爆実験をした1949年に時計は「終末」3分前だった。冷戦が終結し、米ソが戦略的兵器削減条約に調印した91年には17分まで戻った。そして23年は、ロシアのウクライナ侵攻により過去最悪の90秒前となった。

 ソ連が核実験を行い世界2番目の核保有国となった1949年以降「核抑止力」が議論されてきた。当初、核抑止論の前提には「飽和点」の考えがあった。A国がB国に核先制攻撃を加えた場合、B国が自国の損害と同等の損害をA国に与えうる核兵器を保有するのを「限界点」とするとの考えだ。

 しかし、米ソは核軍拡競争に陥り、核弾頭は全人類を滅亡させるだけの数が保持されるようになった。現在、核を保有する国は9か国とされる。拡散することで使用の危機は高まっている。そして、戦場は地球上にとどまらず宇宙空間にまで急速に広がっている。

 唯一の被爆国である日本は、核兵器禁止条約締結国会議にはオブザーバー参加もしない。

川田順造「文化の三角測量」 

 筆者は大学卒業を1年遅らせて、アフリカのケニアの小さな学校(日本アフリカ文化交流協会・通称「星野学校」)に「遊学」した。筆者の大学での専攻は国際政治学だった。アフリカに行くため、ゼミの教授に世話になり、卒論のテーマを急遽、アフリカ政治に変更しナイロビの学校に潜りこむことができた。

 直接会ったことはなかったが、文化人類学者の川田順造は、筆者のようにアフリカに滞在した人間にとって、あこがれの存在のひとりだった。ブルキナファソのモシ王国、フランス、日本の下町文化を比較研究し「文化の三角測量」を提唱した。

 筆者は東京に生まれ育ち、学生時代にケニアのナイロビ、就職してからシンガポール(短期間)、アメリカ合衆国のワシントンDC近郊、そして通訳案内士となり沖縄の八重山諸島に住んだ経験があるが、「文化の三角測量」の視点には大きな影響を受けた。

 川田が「悲しき熱帯」の翻訳を通じて紹介したレビ=ストロースの「構造主義」には常に魅力を感じた。もちろん筆者は川田のような深い洞察力を持っていないが、異なった文化を持つ3地域以上に住み、その日常を経験することは、「欧米一辺倒」や「東京中心」の視点から離れ、世界や日本を理解する上で貴重だと考えている。

 筆者は、半世紀前の学生のころアルバイトをしながら登山や旅に熱中していた。1980年代初頭は、ヒマラヤをはじめ世界には、まだ未踏峰が残っていた。筆者は当時、アフリカにはまだ前人未踏の地があると本気で信じていた。すでに「宇宙船地球号」あるいは「かけがえのない地球」(ストックホルムの国連環境会議)といった考えは表明されていたが、人類による急速な工業化が地球環境に与える影響について過小に評価されていた時代だった。

 日本の最南西の地域が、八重山諸島だ。北の知床とともに、日本で一番自然が残っているとされる。イリオモテヤマネコの棲む西表島は、沖縄県で本島に続き2番目に大きな面積を誇る。

 10年ほど前、筆者は西表島でネーチャーガイドを始めた。西表は、島の半分に道がなく北西部の浜には、ほぼ人が入らない。サンゴの透きとおった海にカヤックで漕ぎ出し、北側の無人の浜に行くと、多量のゴミが漂着している。観光客の行く浜には、漂流ゴミが目につかないだろうが、小学生など地元の人たちが定期的に漂着ゴミを取り除く掃除をしているのだ。(筆者も参加したことがある)

 当時、西表エコプロジェクトが行っていた調査では、西表の浜に漂着するゴミの95.9パーセントはプラスチック製品だった。漂着するペットボトルのバーコードによる使用国を調べた結果では、90パーセントが中国、台湾、韓国、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイなどの海外から漂着していた(2012年リーフレットより)。アラビア語のラベルが貼られたペットボトルもあった。

 2007年の報告によれば、アホウドリの繁殖地として有名な太平洋の真ん中、ミッドウェー諸島は、その時点ですでに日本からのゴミで埋め尽くされていたという。

 浮遊、漂着するプラスチック製品などを日本製品を誤って食べて死亡するアホウドリの状況も報告されている(ドキュメンタリー映画 MIDWAY)。

 地球温暖化によるサンゴの白化による死滅も深刻だ。このまま海水温の上昇が続けば、半世紀後には伊豆半島や三浦半島がサンゴの海となっていることも考えられない話ではない。南極、北極でさえ、地球温暖化の影響を受け急速に氷が溶け出している。今後、巨大な氷山の離岸が相次げば、その影響は計り知れないだろう。人工物の残滓が残されていない場所や地球温暖化の影響を受けない地域は、すでに地球上に存在しないと言ってもいい。

Like a Rolling Stone-転がる石のように

 40年前の日本では、エズラ・ボーゲルの著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が評判を呼び、GDP世界第2位の世界経済の「昇る太陽(Rising Sun)」として扱われていた。同時に、今の米中貿易摩擦のように、「日米貿易戦争」は激化していた。

 新聞滅亡へのプロセス」第1回ブログで数字を列挙したが、その後の日本は、この30年で「転がる石」のように坂道を下り続けている。まさに「沈みゆく太陽(Sinking Sun)」の状況にある。その理由をひと言でいえば、若者が明るい将来を描けない社会に陥っているためだ。

 背景には「世界一」といわれる日本の急激な高齢化がある。少子化は毎年、その深刻さを増しており、基本的に移民を受け入れない日本の状況は、国債の発行残高という未来への負債とあいまって人口減少の重荷を各世代に背負わせている。

 世代間を含めた格差拡大、貧困率上昇の問題もある。このままでは、次の4半世紀、日本は「もはや先進国とはいえない」状況から、さらに泥沼に陥るのではないかとの危惧さえ強まる。

 しかし、人口減少は世界共通の課題ではない。地球規模で言えば、逆に人口増加こそが問題だ。国連の人口推計によれば、2022年に80億を超えた世界人口は、今から4半世紀後の2050年には、およそ100億人になるとされている。世界人口が50億を超えたのは1987年、1950年には25億人にすぎなかった。

 一方で、貧富の格差は広がっている。これは世界各国に共通する問題だ。世界の最貧層20パーセントが世界の所得全体に占める割合は2パーセント未満となっている(国連広報センター)。2008年以降、世界の億万長者の数は2倍以上に増大した。クレディスイスによると、2018年に生み出された新たな資産のうち82パーセントは、1パーセントの最富裕層の手に入ったという。

 「所得と資産の格差拡大は、賃金の停滞と労働分配率の低下、先進経済圏における福祉国家の衰退、開発途上国における社会保障の不備、税制の改正、金融市場の規制緩和、急速な技術的変化と自動化など、多くの要因によって説明できます」と国連広報センターのホームページにはある。

分断の世界とは

 限られた地球資源と人口の急激な増加。世界規模で起きる貧富の格差拡大。これが世界的な分断を起こしている根本要因だと筆者は考えている。国家間、国内での富の争奪が分断を引き起こす。地球環境の「持続不可能」な「開発」を伴う自国第一主義が跋扈する。

 SDGs(持続可能な開発目標)は2015年の国連サミットにおいて国連加盟国193か国の全会一致によって採択された17のゴール・169のターゲットで構成される国際目標だ。地球上の「だれひとり取り残さない(leave noone behind)」を誓うとしているが、採択から10年、世界は逆の方向に向かっている。

 「アメリカ・ファースト」。自国第一主義を掲げて自身2度目の大統領に就任した米トランプ大統領は、就任早々から米大統領令を連発、気候変動抑制に関する重要な国際協定であるパリ協定からの離脱、WHO(世界保健機関)脱退などを早々と決めた。また、世界各国に対しては関税の引き上げをちらつかせるなどブラフをかけている。

 自国第一主義は、限られた地球資源の取り合い、温暖化など地球環境の破壊、国家間の紛争、武装勢力の勃興を加速させるだろう。

 欧州議会でも極右・右派政党の支持が拡大し、フランス、ドイツでも右派が伸長している。移民排斥、環境規制の見直しなどを求める自国第一主義は、グローバルサウスと呼ばれる経済中進国にも大きな影響を与えている。自国第一主義、経済覇権獲得競争の広がりで、西洋的民主主義に対する懐疑は、世界規模でさらに進むはずだ。権威主義政権の存続エクスキューズとしても使われるだろう。インターネット、SNSのさらなる普及がこの傾向に拍車をかける。

 「自国第一主義」は「普遍主義」の対立概念だ。「普遍主義」とはマグナカルタ、ピューリタン革命、フランス革命、米国独立戦争、ワイマール憲法など長い歴史で形作られ、獲得され、世界人権宣言などに結実した普遍的(ユニバーサル)な思想を指す。人種、性別、宗教、国籍などに関わらず、すべての人を等しく扱うべきとの立場を中核とする。普遍主義を実践するには、世界的な富の再分配が不可欠だ。

 米国内の分断(Divided States of America)は、今にはじまったことではない。顕在化したのは4半世紀前、21世紀に入ったころだ。スウィングステート(激戦州)と呼ばれる米大統領選の勝敗を決するわずか7州(注3)の総人口6000万人のうちの投票者が、米国民主主義制度のもとで、世界80億人に多大な影響を与える構造が顕在化している。

 「neck to neck」と呼ばれる2分した米大統領選挙激戦州における共和、民主両党支持者の大統領選挙状況を見れば、米国7州に居住する有権者が世界80億人のキーパーソンとなったと言える。この状況はこの20年変わっていない。ネーションステート体制下の民主主義の基本理念では、他国の選挙に直接影響を与える行為は、「御法度」であり、他国に住む人々にとっては、米「激戦州」は、触れることのできない隔絶した世界となっている。ここに「民主主義の危機」が凝縮されている。

 米トランプ政権は、「予見不能」という最大のカードを切り札に、「ブラフ(脅し)」と「ディール(取引き)」を繰り返し、最低4年、自国権益の最大化を目指し世界を混乱に陥れていくだろう。特に、米中関係は世界の将来を決める最大要因となる。地政学的にも日本の取る道は極めて厳しく難しい。「トランプ頼り」一辺倒では済まず、「一本足打法」といわれる「米国一辺倒」から懐の深い多元的外交への急速な転換が求められる。

渡辺恒雄 読売グループ総帥・主筆の死去に想う


 読売新聞グループ本社代表取締役・読売新聞主筆の渡辺恒雄氏が12月19日に、死去した。98歳だった。筆者は、19日午前9時48分の読売緊急速報により訃報をスマホで知った。20日、21日の読売紙面を手にし、他紙にも目を通した。

 この30年で、世界の新聞は地殻変動を起こした。ネットメディアの勃興により、世界すべての国でメディア環境は激変した。一方で、日本の新聞界は経営分野では「護送船団方式」、編集分野では「記者クラブ」といった旧慣を温存し、「ガラパゴス」的な状況を堅持した。この間、渡辺は読売グループの最高権力者の座に「鎮座」し、政界・メディア界に強い影響力を行使した。

 一方で、新聞、テレビといった報道メディアのジャーナリズム性は、この30年で薄められ、権力を監視(ウォッチドック)する、というジャーナリズムの構成要素は弱められた。

 渡辺恒雄は、政治フィクサー、日本最大の発行部数を持つ読売新聞の「独裁者」として政治、新聞、テレビなどへの影響力を駆使し、からめ手により日本の保守化への道を切り開いた。この足跡は、歴史に残るだろう。

 渡辺恒雄の人物として特異な点は、特筆に値する政局分析力と人脈を持つ政治フィクサー、放送業界・スポーツ界に極めて大きな影響を持つ読売グループ総帥としての新聞メディア経営者、日本最大の発行部数を誇る新聞の主筆として世論を醸成する立場が「三位一体」となり、政界・メディア界に対する巨大な影響力を手中にしたことにある。特異な能力と運がなければ、他の人間には到底成しえないことであり、この3つの力を併せ持つことで、権力と影響力を最大化できるとの強い自覚で、権力集中への道をまい進したのだろう。

 こうした権力を持ちうる前提として渡辺恒雄の人間力があることは間違いない。「人たらし」と言われるが、「敵」を含めて、一度でも話をすれば、渡辺について他の人に話したくなるような「人間的魅力」があった。戦略に基づく術策、信賞必罰という「非情」と周辺に対する「気配り」が混然一体として存在していた人物像が浮かぶ(注4)。

 そもそも「政界のフィクサー」と「ジャーナリスト」の立場は相いれない。そこには厳然とした一線を引かなくてはならない。これは民主主義体制下のジャーナリズムの基本原則だ。しかし日本型ジャーナリズムは、その境界線を極めてあいまいにしてきた。それが渡辺恒雄の並外れた影響力を生み出した背景にある。戦前、戦後を問わず、記者が政治プレイヤーとなるのを黙認してきた日本新聞界の「罪」は重い。

 著名人の死亡記事というのは、亡くなってから書かれるものではない。新聞社は「死亡記事」の「予定原稿」を事前に作成しておき、その時が来たら更新し最新情報を加え掲載する。

 亡くなった翌日12月20日、21日の読売新聞の紙面を詳細に読めば、渡辺恒雄が「政界フィクサー」であり、そうあり続けるために「読売新聞主筆」の立場が必要であったことがよく分かる。繰り返しになるが、渡辺の矛盾は「政界フィクサー」であるにもかかわらず、みずからを「生涯一記者」と公言していたことにある。読売紙面には、その矛盾が現れている。

  これについては、改めて取り上げる。

 筆者は、図書館で昨年12月20日、21日の新聞各紙を読んだが、東京新聞に掲載された魚住昭(元共同通信社記者)の書いた「評伝」と朝日新聞の御厨貴(東大名誉教授)へのインタビューが印象深かった。

 魚住は、「評伝」記事の中でこう記述する。
「大阪読売で、社会部長として反戦・反差別の紙面作りをしていた故黒田清さんはこうした方針(渡辺による右傾化路線の徹底)と対立することが多くなり、退社を余儀なくされた。黒田さんは病死する前、私に語った。「読売は権力にすり寄っているなんてもんじゃない。権力者が新聞を作っているんだ。そんなのジャーナリズムじゃないよ」
「新聞とは何か。戦後民主主義とは何か。大きな足跡と疑問を残し、『最後の独裁者』を自認するリーダーが逝った」

「渡邉恒雄回顧録」を監修した御厨貴・東大名誉教授は朝日新聞のインタビューでこう語った。
「昭和の猛烈記者、生涯一記者はほめないといけないが、平成になって権謀術数の政治をつくっていく側に変わった。社長や会長の座に固執しなければ、その評価も大きく違ったのかもしれない」

桂敬一の死去 「メディア評論」とフジ会見

 今年の1月19日、渡辺恒雄の死から1か月後、桂敬一が死去した。桂は、筆者が大きな影響を受けたメディア研究者のひとりだった。1935年生まれ。日本新聞協会研究所長を経て、東京大学新聞研究所教授(新聞研究所は、社会情報研究所を経て、現・東京大学大学院情報学環)。歯に衣を着せぬ評論と言動で有名だったが、優しい人物だった。

 桂は多くの著作を世に出しているが、筆者が特筆したいのは雑誌「世界」に連載された「メディア批評」の執筆者のひとりだったことだ。神保太郎のペンネームで書かれた「メディア批評」は、計4人(全期間では6人)の執筆者で成り立っていた。月に2本掲載されており、ひとりが隔月に1本書くシステムだったという。

 「メディア批評」は2008年から2018年までの論考が2019年4月に「メディア、お前は戦っているのか」という書籍(岩波書店)にまとめて収録されている。

 この本には、桂による次のような「まえがき」がある。

 「本欄(「メディア批評」)に先立つ時代を振り返れば、1990年代末から2000年代初頭にかけての報道界は、政府・与党による表現規制の動きに直面していた。例えば、個人情報保護法(03年)、武力攻撃事態対処法(04年)、国民保護法(04年)ーーといった情報統制が懸念される悪法の成立が相次いでいた。こうした流れは、小泉純一郎首相(01年)の下で立法化が本格化し、『戦後政治からの脱却』という意味不明の言葉を使い、再軍備・改憲への路線を打ち出した安倍晋三首相(06年)に引き継がれた。06年には愛国心を強調する新『教育基本法』が成立した」
 「そして2012年。衆院選での民主党政権の挫折と第二次安倍政権の発足を迎えることになった。13年に『特定秘密保護法』が成立し、翌14年には武器輸出三原則に代わる『防衛装備移転三原則』や集団自衛権の行使容認などが次々に閣議決定された。しかし、15年には『安全保障法制』の強行採決を阻止するために、市民らが何度も国会前に集まり、抗議の声を上げた。だが、テレビはデモ隊の映像を流すことに極めて抑制的だった」
 「今後の注目点は見え始めているように思う。本欄でも触れてきたが、伊藤詩織さんが告発した性被害をきっかけに#MeToo運動が日本でも急速に広がり、メディア自身も同様の問題を抱えていることを顕在化させた。また、2019年3月、東京新聞の望月衣塑子記者に対する首相官邸報道室による質問妨害を批判して、報道各社の現役記者や労働関係者など600人以上が官邸前に集まり、抗議活動を行った。しかし、記者クラブの反応は冷たい。もっぱら望月記者の質問の仕方にのみ神経をとがらせ、自らの質問内容を研ぎ澄ます努力を怠っている。記者たちがまず取り組むべきは、記者クラブ、記者会見のあり方を一から考え、フェイクまみれの政権を徹底追尾することである。まさに、『集合知』によって女性差別、メディア規制に立ち向かう道筋が見えてきた」

 「メディア批評」の2018年2月は「性暴力告発報道にあらわれるメディアの姿勢」、8月は「メディア内部に蔓延する性暴力」がテーマとなっており、「メディア」と「性暴力」の問題を詳しく論じている。

 昨年末発行の「週刊文春」記事によって明らかとなった元ジャニーズの「大物タレント」による「性加害疑惑」で、フジテレビの対応について大きな批判が巻き起こり、経営の根幹を揺るがす問題に発展している。

 フジテレビは1月17日にこの問題に関する記者会見を「放送記者会」という限られた「記者クラブ」所属記者のみを対象に行った。参加メディアを制限し、動画撮影を禁止するという「時代錯誤」の記者会見は、ネット上などで、テレビ局という報道機関の一翼が「説明責任を果たしていない」という強い批判を浴び、大規模なスポンサー離れを引き起こした。

 フジテレビは会長、社長の辞任を決め、27日には2度目の記者会見を開催した。今度は前回とうって変わり、参加資格をほぼ無制限としたため既存メディア、フリー記者、海外メディア、ユーチューバーなど191媒体、437人が参加したという。会見は10時間を超えたが、フジテレビは、そのすべてを地上波テレビ中継するという異例の措置を取った。

 記者会見は反響を呼び、翌18日、19日はネットやテレビ、新聞ではこの会見と異例の長さに対するニュースと参加記者の質問内容・態度に対する賛否両論が大きく報じられた。

 テレビ、新聞といった既存メディアでは、この記者会見の持ち方と記者の質問の仕方、内容に批判的な記事が目立った。識者の意見を紹介しながら、フジテレビが記者会見を「ガス抜き」に使ったのではないか、との内容の記事もあった。

 先に指摘したように「メディアと性暴力」の問題は、2018年には「メディア批評」や週刊誌などが重大問題として指摘していた。その後、BBC報道を発端としジャニー喜多川による性加害問題が明らかとなり、各テレビ局が検証を行った。しかし、今回のフジテレビの対応の問題を理由とした会長、社長の引責辞任は、「人権侵害が行われた可能性のある事案に対する対応に至らなかった点がある」との説明にとどまった。フジのいう「人権侵害」とは何を指すのか、深夜に及ぶ長時間会見でも明らかにされたとは言えない。

 会見では、記者会見参加者の質問が、フジのいう「人権侵害の可能性」が「性加害」「性暴力」の範疇に入る問題なのか否かに集中したが、フジは一度回答した内容をtake back(前言撤回)し「被害者」の「心身のケア」を理由にノーコメントと再回答した。これが参加者たちをtaken back(あきれ)させ、会見を紛糾させる要因になった。

 7年前とジャニーズ喜多川の性加害問題で表面化したメディアと性暴力の関係の問題は、結局のところメディア内で解決されるどころか、内部で十分に議論もされておらず、その状況がはからずも今回のフジテレビ記者会見で露呈しているのだと、筆者には映った。

 既存メディアの体質は「メディア批評」が提起した7年前と現在で大きな変化を見せていないにしても、メディア状況は大きく変化している。1月17日の記者会見が既存メディアがメーンストリームだったころの記者クラブ・情報提供型、予定調和の会見だとすれば、27日の会見はネット・SNSが既存メディアと同等の扱いを受ける会見へのターニングポイントとなる可能性を秘めている。それは記者クラブ制度の崩壊への一歩かもしれない。

 もう一点、今回の会見の報道側からの質問が集中したのは、日枝久取締役相談役の責任や進退についてだった。日枝は、現在87歳で40年以上に渡りフジに君臨し、いまも人事を通しフジテレビやグループ本社に大きな影響力を保っているとされる。「怖くて誰も辞めろとは言えない」との幹部の言葉を、27日付の朝日新聞コム記事は紹介している。テレビや新聞ではフジの「天皇」「院政」との言葉も散見される。

 98歳で読売新聞グループ本社代表取締役・読売新聞主筆のまま亡くなった渡辺恒雄を思い浮かべても日本型メディア経営の前近代的な根深さを考えざるを得ない。

 「メディア批評」は月に2本のテーマで、合わせて1万字を標準に書かれていた。いま、メディアに関する批評は文字の世界からSNSの短文、YouTubeのようなネット上に移行している。それでも、それだからこそ、長い文字数を費やしたメディアに関する評論は重要だと筆者は考えている。「新聞滅亡へのプロセス」は、冗長といわれても読者がつかなくても、毎回1万字程度書こうと心に決めて始めた。どこまでできるか分からないが、これからもこの方式を踏襲したいと考えている。(1月29日記す)

このブログに掲載する写真は、すべて筆者が通訳案内士、ネーチャーガイドとして各地で撮影した。今回は西表島「星砂の浜」に昇る朝日。


(注1)筆者は、手塚治虫漫画とともに育った。没頭して読んだ漫画は「火の鳥」だった。特に登場人物、時代を超えて変化(へんげ)するサルタヒコとは「何者か」がずっと気になっていた。筆者は通訳案内士を生業としているが、かねてから仕事と関係なく伊勢から熊野にかけて点在する猿田彦(サルタヒコ)神社を巡る旅をしてみたいと思っていた。それが今回、実現した。

 サルタヒコは日本書紀、古事記に出てくる国津神だ。近年は「神話」でなく、考古学に基づく実証的な考証も行われるようになっている。
 立派な社殿を持つ伊勢市の猿田彦神社のほかに、伊勢の北、和牛で有名な松坂市の阿射加(あざか)地区にある神社2社がサルタヒコを祀っている。両社は平野を見渡す阿坂山(あさかやま)山麓にあり、「阿佐鹿悪神」「阿佐賀荒神」(あさかのあらぶるかみ)=サルタヒコを祀っているとされる。記紀の猿田彦大命とは「何者」で、どのような史実が隠されているかを、考古学的資料とあわせて考える上で興味深かった。伊勢、熊野を巡り、より古層の信仰・文化を感じる旅だった。「火の鳥」でサルタヒコが時をワープしてあらゆる時代に登場する理由が少し理解できたように思う。

阿射加神社の杜

 筆者は、小さい頃、鉄腕アトムの漫画を読み、テレビで観るのが大好きだった。アトム、その妹のウランという未来のロボットの名をみれば、あの科学万能、科学が未来を拓くと考えられてた右肩上がりの時代、原子力は未来社会を開くあこがれだったのだと思う。東日本大震災を経て、手塚治虫が生きていたとしたら、いま何を思うのだろうか。サルタヒコの地を巡り、深い自然の森に身を置いて、そんなことを考えた。

(注2)原水爆禁止運動の歴史を筆者なりに簡単にまとめてみる。
 1954年3月1日の南太平洋ビキニ諸島での米国による水爆実験で第5福竜丸など日本の遠洋漁業の漁船が被爆したことを契機に、日本各地で核兵器廃絶を求める署名運動が行われた。読売新聞は、この第5福竜丸事件をスクープし、新聞各社も積極的にこの事件を取り上げ、全国に署名活動は広がった。翌年には「第1回原水爆禁止世界大会」が開催。この署名活動の参加者などで、原水協(原水爆禁止日本協議会)が結成された。
 1961年、安保条約や原発問題への対応の違いから、自民党と民社党系メンバーが脱退した。民社党系は「核兵器禁止平和建設国民会議」を結成した。63年には、ソビエト連邦の核実験再開をめぐり、社会党、総評(日本労働組合総評議会)と共産党グループの間で原水協内に対立が起き、社会党・総評系のメンバーは原水協を脱退し、1965年に新たに原水禁(原水爆禁止日本国民会議)を設立した。
 その後、原水禁、原水協は「世界大会」を合同で開催(1977年から85年)した時期もあったが、基本的には原水爆反対運動が統一されて行われてはいなかった。
 日本原水爆被爆者団体協議会(被団協)も上記の影響を直接的に受けた。被団協はもともと原水協に加盟していた。しかし、原水協が分裂し原水禁が創設されたことで、1965年には、どちらの組織にも加盟しないことを決めた。広島被団協は、日本被団協に加盟しているが、もうひとつ同名の団体が存在しこちらはオブザーバー参加している。

 筆者が広島を訪れた1975年は、原水禁、原水協は8月6日に別々に集会を行なっていた。政党・労働組合によって組織化された原爆投下の日の集会開催後の会場を掃除する「企画」は、原水爆禁止活動が政党や組織の都合で分裂している現状を「皮肉る」目的で行われていた。
 東京クラルテは、ベトナム戦争反戦平和運動「ベトナムに平和を市民連合(ベ平連)」の元メンバーによって運営されていた。

(注3)スウィングステート(激戦州)とは一般的に以下の7州をいう。アリゾナ州(750万人)、ジョージア州(1070万)、ミシガン州(1000万)、ネバダ州(320万人)、ノースカロライナ州(1050万人)、ペンシルバニア州(1280万人)、ウィスコンシン州(580万人)。7州の人口の合計は約6000万人。

(注4) 筆者はメディア、新聞界に疎く、渡辺恒雄の名前を初めて聞いたのは、就職した直後、1982年ごろだった。その時の記憶はいまでもある。
「渡辺っていうのは面白いよ。廊下で会ったら『老人のオムツ』の世話までするのは大変だって言うんだよ」。老人とは務台光雄のことを指していた。
筆者にそう語ったのは、橋本正邦。1940年に国策通信社だった同盟通信社入社。戦後の46年に共同通信社入社、58年外信部長、61年ワシントン支局長、67年編集局長、68年常務理事。共同通信社顧問、新聞協会参与を務める。

 筆者は、何度か渡辺恒雄から声をかけられて会話をしたことがある。短い会話だったので渡辺には筆者の顔と名前が一致していないのではないかと思う。筆者の方には、その時の記憶が今でも鮮明に残っている。良い印象しか残っていない。また、渡辺が主宰する新聞社間の会議の末席や、渡辺がほかの新聞関係者と込み入った話をする席に、たまたまいたこともある。これについては、いずれこのブログで書くが、新聞界に影響を与えた足跡を垣間みられた貴重な経験だったと思っている。




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