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文芸部 副部長


高校時代。
必修クラブを文芸部に選んだ私は(今は必修クラブってないのかな)、調子に乗って放課後の部活動も文芸部に入部した。
なんで調子に乗ったかと言うと、顧問のK先生から書いた詩を褒められたからである。

文芸部で、それらしい怪しげな詩やらエッセイやら小説(のようなもの)を書いて、もっともらしい註釈を述べてみたりしていると、なんだか頭が良さげに見えるらしい。ということに気がついた。
同じクラスの女子からは、この小説の続きが早く読みたいなどと言われたりもして、気分を良くした。

その頃のその高校の文芸部は、新聞部と並んで、ちょっぴり反体制的な雰囲気を匂わせていて、先輩にはそんな趣の人もいたのだが、私たち新入部員の一年生たちは、ただの運動音痴の寄り集まりであった。
ひょっとしたら、たった2、3年でも時代の風潮が微妙に変わるような、そんな世情もあったのかも知れないと後々思ったりもしたが。

若い方はご存知ないだろうが、当時、ガリ版なる簡易な印刷機があった。
月に一度、ガリ版を使って、自分たちで文集を
作成していた。
文化祭では文集を売ったりもしたが、一体何冊くらい売れたんだろう。記憶がないほど売れなかったに違いない。

必須のクラブ同様、顧問のK先生の熱心な指導にも関わらず、私を含め数人の新入部員の文章力は一向に上達することもなく、おふざけのようなエッセイでウケを狙ったりしていた。
それでもK先生は、私の作品をよく褒めてくれた。言葉のチョイスが上手いと言う。

読書は本当に好きで、ジャンルを問わず読み漁っていた。
言葉のインプットは、無意識のうちになされていたとは思う。

自分の想いにぴったりの言葉と表現を探し出し、それらを積み上げ文章を作り上げていく。その面白さと楽しさは、確かにその文芸部で学んだ。
出来上がった文章は、一枚の織物にも似て、思いがけない模様が浮かび上がっていたりもする。

文芸部とK先生のおかげで、私は自身を少し変えることが出来たと思う。
引っ込み思案で、コンプレックスの塊で、屈託だらけの私が、「文芸部」の隠れ蓑を纏うと、物静かでクールな、文学少女に変身出来たのだった。
一見、だけど。

3年生になって、他の部員から文芸部部長に推されたが、部長は真面目男子のO君に押し付け、私は、副部長というたいして用事もなく、責任もないような席に収まったのであった。
なんやかや言いながら、私は結構な策士ではないか。
嫌な奴。

そうそう、文芸部でのペンネームは「紫樹」(しきと読む)であった。紫式部を元に、色々いじっているうち、そんな名前になった。
その後、紫樹の後に「スタンレー」を引っ付け、「紫樹・スタンレー」などと名乗っていた。
スタンレーとは、その頃、私が大好きだったロックバンド「KISS」のボーカル、ポール・スタンレーからいただいた(勝手に)。
書いてて、穴に入りたいくらい恥ずかしい。
どの程度のレベルであったかお分かりいただけるだろう。副部長くらいでちょうど良かったのである。
真面目男子O部長、ごめん。
私、文芸部の名を汚していたかも。

それでも、卒業前の最後の文集のために書いた短編小説は、ちょっといい出来だったと思っている。 
ちょうど作成中の頃、母が入院した。
病院の母のベッドの横で書き上げて、K先生から交代した、顧問のN先生に手渡した。
母が入院したことが大きく影響した短編は、N先生が上手く手直ししてくれたおかげで、純文学のような仕上がりになった。

先生方にも、褒めていただいた。
タイトルは「桔梗の里」。
ストーリーもいまだにはっきりと記憶している。
時は平安時代の辺りか。はっきりとは設定していなかったが。
都を追われた高貴な身分の母と、まだ幼い息子の物語。
その頃の文集はことごとく捨ててしまって、手元には残っていない。
その作品だけは、また読み直してみたい唯一の出来の良さであったので、残念至極である。
卒業間際、やっと文芸部副部長の面目躍如とあいなった作品であった。
殆どN先生のおかげだけれど。

こうやって思い返し、文章に組み立てていくと、あの部室の雑然とした机の上の様子や、インクの匂いや、窓から差し込む陽の光。
楽しかった思いが蘇ってくる。
本当に楽しかった。

稚拙でも、それでも文章が書けるということは、楽しいことなんだと、今さらながら気づいた元文芸部副部長。

何十年かかってるんだか。
ねえ…。




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