はじめまして 母親を介護してきたこの10年(後半4年ほどは施設でお世話していただきましたが)。 3月にその母が旅立ちました。勿論悲しく寂しいのですが、大往生と言うやつ故に、そこは微妙な心持ちではあります。 認知症にもならず寝たきりでもなく、あっぱれと申しますか…。 自宅で介護をしていた時は、時間に追われきゅうきゅうとした毎日でした。私一人。年の離れた姉は遠方に嫁いでいます。近くに縁故者もおりませんでした。 ほぼフルタイムで働いておりましたので、デイサービスを利用しても、私
無事退院できたものの、半年を過ぎたら、母は老健にはいられなくなるのではないだろうか。 半端な知識しかなくて、よくわからない。 在宅時のケアマネに、相談した。 老健に入所した時点で、在宅時のケアマネから老健のケアマネに代わるのだが、在宅時のケアマネSさんは色々気にかけてくれて、定期的に連絡をくれていた。 まず老健を退所後、どうするかである。 自宅に戻るか、特養や老人ホームを探すか。 もう自宅での生活は、望めそうになかった。 入院前は、歩行器を使って室内での移動は出来たが、今は自
ふくらはぎの膿が溜まったところを切開して、膿は除けたものの、白血球、CRP反応の数値はなかなか正常に戻らない。 抗生物質の点滴が続いた。 食欲も戻らないままだったが、看護師さんも首を捻るほど元気だった。 見た感じは元気そうだが、何と言っても高齢だ。 食事もあまり食べないし、蜂窩織炎もすっきりしない。何より前回の入院時の、蜂窩織炎からCD腸炎、心不全発作にまで至った経緯を考えると、病院にいるからといって安心もできない。 3週間の入院中、毎日病院に通った。 休日は昼間、仕事の日は
3ヶ月の入院ののち、母は老健Fに入所した。 その時の私は、老健についてほとんど知識がなかった。 老健とは、介護を必要とする高齢者の自立を支援し、在宅復帰を目指す施設で、医師や看護師、理学療法士、作業療法士などの専門スタッフが常駐して、リハビリをしてくれる。在宅復帰を目指してはいるが、そこから老人ホームへと移る場合も多い。 母は退院時、病院側から離床が難しいのではと言われたらしい。 別の老健からは、それを理由にやんわりと断られた。 老健を出た後、自宅に戻るかそうでないかで、老
ひっそりと生まれ 誰の目にも留まらず 生きて いなくなっても 誰も気づかない 何のために生まれたかなんて 考える間もなくて 風に吹かれ 雨に打たれ 日に焼かれ 夢はあったか 望みもあったか 温もりは知ったか 愛はどうだ さよならの淋しささえ 知ることもなく 私に似た君達よ
満月前夜の月を見上げていたら 旅立つ前日の母の笑顔が ふいに浮かんだ 暑過ぎた夏を駆け抜けて行った物語があり ふと気づいたら一つ歳を取り ふと気づいたらもう日が暮れて ふと見上げたらぽっかりと月が浮かんでいた あぁ母のあの笑顔をもう一度見たいなぁ 満月に 少し足りない今日の月
もう20年近く前の話。 婦人雑誌に、私の小文が掲載されたことがある。 募集のテーマは「私の青春の一曲」。 23歳の頃、失恋をして、その頃大流行していた「氷雨」という曲についての話を書いて投稿したら、掲載してもらえた。 その時の小文を、かいつまんで書いてみる。 23歳の時、私は大失恋をした。 一人暮らしの部屋に帰りたくなくて、パチンコ店で時間を潰していた。その時流行していた「氷雨」という曲が店内の有線で、よくかかっていた。 ♫誰が待つというの、あの部屋で。 そうよ、誰が待
秋のお彼岸には、いつも母と墓参りに行くのが慣わしになっていた。 列車に乗って小一時間。 列車の窓から見える風景は、長く変わらない気がする。 田んぼに白鷺がいる。 畦道に、彼岸花が咲いている。 圧倒的に赤が多いけど、白い彼岸花も見える。 見覚えのある川が見えてくる。 河口付近だ。 川にかかった鉄橋を、列車は走る。 特急なので窓を開けることは出来ないけれど、海の匂いがするはずだ。 製薬会社の工場の、大きな煙突が見える。 父は銀行を退職し、その製薬会社に再就職した。 すぐ近くの社宅
なぜか1匹増えてる。 5つ子。 ワンオペ。 コクシジウムやら言う寄生虫。 真夜中のイケメン獣医さん。 とても濃い時間。 こんな体験はもう2度とないだろう。 理想と現実の狭間で 削られていくのは 理想の方か現実か。 5つ子の寝顔を見ながら 色んな思いが溢れて涙になった。
天使達がやって来た! 突然4匹も! これは困った。 どうするよ。 頑張るよー。 ご飯の用意。 目やにを拭いて。 はいはい おトイレ行ったのね。 あ゛あ゛ どこ行くのー。 てな具合で忙しすぎて。 今日は呟いてみました。
私の父は52歳で病死した。 年の離れた姉はもう成人していたが、私はまだ5歳。 だから、父との記憶は数えるほどしかない。 あとは、親戚や母や姉の記憶の中にいる父の話を聞いて、想像して…。 私の中の父は、誰かの思い出の父を土台にして、自分の都合の良い脚色で出来上がっているので、それはそれはハンサムで、心優しく、頭脳明晰で、洒落者の完璧な人間に出来上がっている。 もともとは、銀行に勤務しており、父の義理の兄の証言では、優しくハンサムな父の窓口には若い女性が列を成したとか、母が言う
一時期、歩くことに取りつかれた時期があった。 母と暮らすようになって、4、5年経った頃だったと思う。 休日は必ず歩いた。 2時間3時間、10キロ以上歩いていた。 ランナーズハイなる言葉があるが、ウオーキングハイとでも呼ぶべきか、ひたすら歩き続けると、不思議に疲労感より、すっきりとした充実感の方が勝るのだ。 歩きながら、色んなことをあれこれ考えたり、夢想したり。 それも、歩くことの楽しみのひとつである。 近々に聞いた歌や詩の一節などが、不意に頭に浮かび、何度も繰り返し再生され
保護猫団体の猫川さんと 、ある飲食店の敷地内にいる子達を地域猫にすべく、奮闘中であることは、前回の記事で書いた通り。 前回の記事 ニャンコたちが人間の言うことを聞くわけもなく、想定外に計算外。 すんでのところで赤ちゃん産んじゃった、キジママ。 暫く見かけないなあと思っていたら、大きなお腹で舞い戻ってきて、あれよあれよと言う間に、ベイビー生んじゃいましたよ、あーすっきり! みたいなすました顔で、ご飯もらいに来る。 あーあ、と猫川さんとためいきの二重奏。 敷地内のどこかにベイ
だからさ、しーちゃん、しーちゃんママ。 すぐ側にいるのにさ、 なんでベイビー達を叱らなかったかな。 白ベイビーなんてさ、一直線に私の方に歩いてきたよ。フラフラしながら。 危ないだろ、人間に向かって、まだ一月も経たないのにさ。 でさ、案の定、私に写真撮られてさ、その写真、保護猫団体の猫川さん(仮名)に送られちゃったから、ほら大変。猫川さん大騒ぎさ。 なんせベイビー猫だぜ、2匹だぜ。まあ見かけは関係ないけど可愛いぜ。スギちゃんじゃないぜぇ。 猫川さんの命令で(これからが一番危な
ようやく、母は回復に向かっていった。 が無論、元通りではなかった。 院長から呼ばれて、退院を勧告された。 次々病気にかかったので、もう少し入院できるのかと思っていたが、一応治療は終わりということらしい。 入院は3ヶ月近くになっていた。 もう自宅は無理。施設を探しなさい。 院長は言った。 院長とは、30年近くの付き合いである。 精神的なものからくる腸炎で、長く通院してきた。 同い年で、お互いの気質もよくわかっているし、とても気さくな女医さんだ。 私の病気に関する疑問にも、
変な咳だと思った。 腸炎は少しずつ落ち着き始めていたが、食欲が戻らず、輸液で栄養を補っていた。 激しい下痢で随分辛かっただろうが、ようやく峠を越したものと思われた。 その頃から、咳が始まった。 看護師に訴えたが、若い女性看護師は首をひねるばかりだった。 あまり、聞いたことのないような咳。 痰が絡んでいるわけでもないのに、ごんごんと響くような湿った感じの咳。 頻繁にというわけでもないので、病棟の医師は見逃しているのではないか。 蜂窩織炎の治療が終わった時点で、担当医は新人医師