
人に対する無償は難しい
災害など、緊急の時の無償の提供は、必要だと思う。
これは、お金の価値なんてなくなるタイミングだから。
それ以外の、緊急ではない場合の、人に対する無償の提供は、もしかすると本人の為にならないのではないかと思う。
お金の価値がしっかりとあるタイミング。そんな時の人への何かの提供には、少しお金の授受があった方がいいのかもしれない。
その金額が高額である必要はない。500円でも1000円でも。
「自分が勝手にやった事だから」という事もあるかもしれない。
でもその時には感情さえ、無償でないといけない。
「勝手に掃除しておいたよ」というのであれば、掃除したことに感謝の感情が返ってくる事さえ期待してはいけない。
「勝手にこれ買って来たよ」というのであれば、買って来た物に対して喜びの感情さえ期待してはいけない。不満の声が返ってきたとしても、そこで自分の感情を乱してはいけない。
だって、勝手にした事だから。
私は最近そう思う。
無償ですることが悪い事というわけではない。
人の為に勝手に動くことが悪い事というわけでもない。
ただ、そういう時は「自分がそれをする事で良い気分になるか」だけを考えないとなと思う。
例えば掃除。
「私は掃除をすることで、私の気分が良くなるからした」そこで終わり。
その後、せっかく掃除した場所を汚されたとしても
「私がせっかく掃除をして綺麗にした場所を汚された」と怒るのではなく「私は掃除をして良い気分になった」というところで、終える。掃除をして綺麗になったことに執着しない。
私はこれまで、「これをしたら褒められる」「これをしたら喜んでもらえる」「これをしたら相手が気分をよくする」「これをしたら相手が気分を害すからやめておく」こういう様に自然に行動してきたように思う。
そして、それが限界に達し怒りとなって噴き出して、今に至る。
そして、怒る自分自身を自分で攻め続け、結果自爆したようなもの。
最初これを怒りとは気づけなかった。「あの人が悪い」「この人が~だから」とイライラし、そしてイライラしてしまう自分を責める毎日。
だから、無償というのなら、行動に対するお金だけでなく、感情も受け取ってはいけないという考え方はどうだろうかと思いついた。
もしここでお金が発生すれば
お金をもらった側も、良い物を提供しようと責任を持つし
それよりも、払った側は、お金を支払うという選択をし、自ら望んで、そのサービスを受けようと決意するのだから、サービスを受け取る時の心構えが違うと思う。感情ではなくお金が行き来する。
私が100円で買ったおにぎり。自分の手元から100円を支払う事を自分で選んで支払った対価。しっかり味わって食べようと集中するのではないか?
知識もそう。ただで教えてもらったら、得した気分にはなるかもしれない。だけど、それは一時的なものになるんじゃないか?
自分が本当にその情報を知りたくて、対価としてお金を支払う選択をして得た知識は無償で得た知識よりも、集中して身に着けようとするのではないかと思う。
マザーテレサのように、無償の愛を与え続けるのは、相当な精神と、自分の軸となる哲学が必要だと思う。無償の愛というのは、自分の身を犠牲にして与え続ける事。そこに感情も含め、見返りを求めていては無償の愛とは言えない。無償の愛を真似出来れば一番だが、人の心には必ず波がある。無償でその時出来た事が、その時々の心の状態で「こんなにしてあげているのに!」と怒りに変わるかもしれない。
誰かに何かを与えるという事は、自分のエネルギーを分けているという事(アンパンマンの様に)。
だけど、アンパンマンは自分の顔を無償で配っても、ジャムおじさんと、バタコさんがすぐに新しい顔を補充してくれる。
現実社会、そうはいかない。自分で削った自分のエネルギーは自分で回復させないといけない。
「周りからの愛で回復します」という人もいるかもしれないが、回復させることをあてにされ続ける周りの人は、どうなる?
「~の為にする」というのも危ない考え方かなと思う。
子供の為に、家族の為に、~の為に・・・。
している本人が、楽しんでしているのならいい。
大変そうに、辛そうに、身を粉にして、「~の為に」という感情を向けられたら、向けられた側は苦しくないだろうか。
”子は鎹(かすがい)”という言葉がある。私はこの言葉に出会った時、苦しくなった。
お金というツールが存在する社会にいる以上、お金が流れ、循環しないと、どこかにゆがみが出来る。歪みは怒りに変わる。
お金の価値があまり重要視されないコミュニティにいるのであれば、物々交換も成り立つかもしれない。野菜を作る人は、野菜と交換。物を作る人は、物と交換。料理の腕がある人は、料理と交換で良いと思う。
結局は、自分がどんな社会で生きて行きたいのか?
お金はしっかり物事に価値を付けられるから、心が弱っている時でも
、その価値を正しく判断し交換することが出来る。
お金がなくても、心と心で繋がって弱っている時はお互い様でやっていく社会もあるかもしれない。
ただ、心と心というのは容易に真似できる事ではない。
「田舎暮らしに憧れて」と言っても、お金に相当な価値を置いたままの考え方では、いずれ苦しくなるように思う。
田舎も、都会も一緒。
様は、自分がどこで「これで充分」と満足するか
屋根があって、寝る場所があって
何も考えずとも安心できる家
温かい団らんと、愛情のこもった丁寧な食事
量は毎食両手に収まるぐらいで充分
高級な物でなくていい
旬の物をよく噛んで、味わって食べる
今日も少し疲れが出たのか「このままでいいのだろうか」「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と感情が溺れだしてしまった。
「今日もこれで充分」
朝、目を覚ますことが出来て
大きく自分の為に呼吸をして
体を動かして
疲れは体のSOS
ちょっと体の中が疲れでパニックになった様です
充分、生きる事が出来ているのに
また忘れていました。
生きるハードルを高くしているのは自分自身。
今日も充分良い一日を過ごせていました。