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廃園 1(全7話)

 白薔薇の君、と彼はその人を呼んでいた。
 私はそんな呼び方はしない。
 だってあんまり気障じゃないか。
 佐代子さん、と私は彼女を呼ぶのだけれど、呼びながらいつも白薔薇の君と胸の中だけでささやいた。恥ずかしくはあったけれど、私はそのあざなの美しさを認めており、何より彼女はその名にふさわしかった。

 白薔薇の花を君は見たことがあるか。
 図鑑の中じゃいけない。ちゃんと実物を、その目でしかと見たことはあるか。
 白薔薇ほど美しい花はない。
 朝の光に濡れながらきらめく姿も、白昼の燦然たる陽にはにかみながら微笑する姿も、夕方、もうすぐ落ちてくる闇にそっと身を任せるしどけなさも、漆黒の夜闇に紛れてほの白く浮き上がる姿も、そのいずれもため息が出るほどに美しいのだ。
 図版や写真ではそのかそけき美しさが伝わるとはとても思えない。目の、網膜に染みてくるような美しさは、空気を通じて浸透してくる類の気配のようなものだ。花のゆかしい香りとともに、その気配を胸いっぱいに吸い込んで……ああ、その時の陶酔は知る者にしか分かるまい。

 私の愛する白薔薇に、その人はよく似ていた。

 微笑の気配、というものがある。
 その人は常にその気配をそこはかとなく纏い、微かに放散される薔薇の香のような尊いものをそばにいる私たちは感知する。
 彼女がいると、それだけで空間が華やかになった。それも騒がしい華やかさではない、あくまで静かで清らかな華やかさだ。
 彼女が笑み崩れる瞬間、私は己の人生の時間が凝縮されてゆくのを感じる。
 私はこの人に会うために生まれてきたのだという歓び。
 それを噛みしめながら、私は彼女を眺め続ける。

 白薔薇の君、と彼女を形容した男を私はひそかに嫉妬している。
 彼は己の少ない語彙の中からそれだけの言葉を掬い出し、それを用いて、少なくとも彼女の関心を勝ち得たのである。
 彼のような頭の軽い人間から、彼女に送る最もふさわしい賛辞がまろび出たことを本当に私は不思議にも思い憎たらしくも思う。
 その賛辞は真っ先に私の唇から漏れるべきであった。
 たとえ含羞が頬を染めたとしても、その言葉を一番に発するのが私であったならば、何故その言葉が喉を滑り出るのを厭うたことだろう。

 白薔薇の君と男は、実に忠実に距離を詰めつつあった。
 それを急接近と四囲のものは思ったようだが、私はそうは思わない。
 何故なら私は知っていたからだ。男が彼女と出会う前までの幾日か。その数日でいかにして彼女に魅了され、その虜となり、またいかにして彼女の気を惹くべきか熟考したということを。

 男は、ありていに言うなら私の親友だった。
 私は実のところ彼のことを親友だと思ったことはないが、彼は私のことを実に信頼しており、折に触れて私のことを親友だと思っている節がうかがわれた。
 彼は挙措の粗い男であった。
 挙措だけではない。人生そのものが粗いのだ。
 粗い人生は粗い思考を生み、粗い思考は粗い挙措を生む。つまるところ、彼の存在自体が粗く、野蛮なのだった。

 初めて彼女を目にしたとき、彼は目を見開いてぽかんと口を開けたまま一切の動作を忘れた。
 他人のひとめぼれの現場を目にするのは初めてだったので、私は忘我の彼をかたわらで隅から隅まで観察したのだが、それすら気が付いていないようだった。
 おそらく息を止めていたのだろう、ふうっと短い吐息をつき、彼が現実世界に蘇生したのがその数秒後。
 今度はしきりに目をしばたたいて、一言目に、白薔薇じゃないか……そう、呟いた。
 彼の観察に没頭していた私は、その視線の先にあるものをあろうことか追うことをしなかった。
 今となってはそれが非常に悔やまれる。
 もしその眼差しの先を追い、彼女の姿を見ていたならば、私こそがその言葉を呟いていたことだろう。

 彼の眼差しの先にいたのは正真正銘、白薔薇であった。白薔薇のごときやわらかで、清く、ため息を誘うほどに美しい……それが、彼女だった。

 その日から彼の懊悩が始まった。
 それは実に明るく輝かしい懊悩であった。
 彼は彼女が一体何者であるのか全力をもってして調べ、彼女の正体を知るや否や、どうやって彼女に接触をしたものかありとあらゆる方法を考え、そしてとうとう最後にひとつの方法へゆきついた。

 非常に単純で馬鹿馬鹿しい策略が、しかしどうしたことか功を奏した。

 図書館で読書をするのが趣味という彼女の情報を得た彼は、毎日のように図書館に通い、彼女のそばの座席を占め、何度も通路ですれ違い、幾日をも経て自分の存在を少しずつ彼女に刷り込んでいった。

 ある日、唐突に出会いは訪れる。

 ガラスのコップに溜まり続けた水が、ある日突然、その縁をこえてあふれ出すかのように。
 けれどそれは偶然ではない。
 偶然を装った必然で、必然とはつまり仕組まれたものであった。

 彼は通路で、本を落とした。
 何冊も何冊も抱え込んでいた本が、とうとう腕の中から零れ落ちてしまったという風に。
 何とも愛らしい茶番ではないか。
 それを彼女が偶然、拾ってやるとでも? 小学生が考えるような実に稚拙な策略だ――しかし、その策略が功を奏した。

 彼女は彼の落とした本を拾ってやり、それからその本の表紙を見てふと微笑した。ちょうど3日前まで彼女が読んでいた本だったのだ。
 それから彼が何と声をかけたのか、そんなことはどうでもよい。それをきっかけに彼と彼女は互いに声を掛け合うようになり、図書館で出会えばいつの間にか席を隣り合わせ、ひとつふたつ会話を交わすようになったのだ。

 彼女は優しい。
 彼のような頭の軽い、挙措の粗い男にも、分け隔てなく平等に接してやる。いわばそれは彼女の恩恵だ。それを彼は分かっているのかどうか、いや、分かっているはずはあるまい。今や歓びの絶頂にいる彼には、何を囁こうが効果はない。

 白薔薇の君。
 彼女の存在がこの世界にあるというだけでこんなにも世界は輝かしく、潤いに満ち満ちる。
 その微笑は花の笑むがごとし、声音は花のしべにまつわる蝶の羽音、ため息は……ああ、もう比喩が追い付かぬほどに、彼女は私の心を震わせる。

 愚かな男ですら、彼女の美しさを理解する。
 とうとう、彼はこんなことを言い始めた。
「そろそろ、告白しようと思うんだ」
 なんて向こう見ずな馬鹿だろう! 告白など!
 薔薇は見つめてこそ愛でてこそ、初めてその美しさが意味をもつのだ。美しい花弁に触れ、芳しい香を嗅ぎ、あげく摘みとろうとするなどもってのほか。愚行の極致に、私はこの時ばかりは眩暈を感じた。
 この男に何と言えば伝わるのだろう。頭を悩ませるが、私はもう知っている。この男を止める言葉などないこと。愚かな者は決して自らの愚かさに気づかない。

 かくして、彼は告白を決行することとなる。
 段取りも、舞台装置も私はすべて把握している。彼の相談のもとに、おおむね私がしつらえたからだ。
 脚本通りに本番は進む。ただその舞台に立っているのは私ではない。世界で一番愚かな、うかれ男だ。

 図書館。
 赤い、黄昏が満ちている。
 この曜日のこの時間、図書館はいつも嘘のように人が少なくなる。それを教えたのは私だ。
 一番奥の棚、そのもっとも人気の絶えるその場所で、彼は思いのたけを吐き出した。
 滾々と湧き出ずるように出てくる言葉たちはどれも陳腐で、けれど奥深い感情をうちに感じさせた。背後の書架の谷間で繰り広げられる人生の寸劇に、私は目を瞑っている。夕日が刺すように眩しかった。
 彼の告白の言葉が終ると、数秒、静寂が訪れる。
 彼女の気配が瞬間、消える。
 薔薇の花びらが散り、そっと水面に波紋を広げたとしても、すぐには誰もその花の散ったことに気が付かないだろう。
 何故か私の眼前によぎった幻想はそんな風景で、眼裏まで沁みとおってくる夕日の赤がひりひりと網膜を焼いてゆく。痛みを感じて、私は眉間にしわを寄せた。
 ……はい、と。
 彼女は言ったのだろうか。
 微笑の気配。
 薔薇の花が笑むかのような。
 短い歓声は、彼のものだ。乱れるような足音が一瞬鼓膜に落ち、そして……抱きしめたのだろうか、抱きしめていないのだろうか。私は見ていないから分からない。分かりたくもない。
 その日薔薇は摘まれ、私は図書館を後にし、今後一切彼とは関わるまいとそう誓った。

 誓いは翌日に早々に破られ、私たちは居酒屋で落ちあい、私は延々と昨日の彼の動悸と勝利について聞かされることになるのだが、まぁそれは別の話。

(つづく)

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