廃園 3(全7話)
女が死んでから、彼の荒廃はよりいっそう進んでいった。
急坂を転がり落ちるように、と人は言うのだろうか。目に見えて酒量が増え、以前はやらなかった煙草を始め、気が付けばギャンブルにも手を出していた。
借金の申し出を受けたのは一度や二度ではない。かなりの金額を私は彼に貸し、決して返済の請求はしなかった。預金残高は面白いように減ったが、それ以上に私は己の復讐に固執した。
そもそも私は何に復讐しているのだろうか?
時々、分からなくなった。
白薔薇の君を私からかすめ取っていった男にだろうか、それとも私になど一瞥もくれなかったいつまでも清い彼女にだろうか、あるいは……考えても、答えは出ない。
私は、彼に新しい女をあてがうことにした。
そろそろ適当な頃だと思ったのだ。
荒廃する精神には、一滴の潤いが何より重要になることを私は本能的に知っている。
瑞々しい朝露を帯びた薔薇、夜露にしどけなく震える芍薬……その雫が決して喉を潤すことはないのだけれど、その潤いの気配こそが彼の内側にたける渇望を絶えずゆすり続けることだろう。
彼は、いずれ壊れる。跡形もなく粉々に砕け散るだろう。
その最後を看取るのは、私のほか、誰もいない。
「……最近、あの人、おかしいの」
彼女がそう訴えたのは、五月の新緑がまぶしい頃だった。
偶然、道で行き違った彼女が、きらめく新緑の影に顔を曇らせながらそんなことを言うのを眺め、私は言葉を失った。
「おかしいのよ、ずっと黙ってたかと思うと、なんか突然にやにやしたりなんかして……私、たまに怖くなるの」
無垢な白薔薇が口にするにはあまりに所帯じみた言葉で、私は言葉を探そうにも見つからず、ただ眼差しだけをさまよわせた。
白薔薇。
あんなにも芳しく瑞々しく、清らかで美しい……あの、朝露に濡れた震える花は、一体何処へ行ってしまったのだろう? 逆光の中で不安を吐露する彼女は、そよとも香らず、あの輝かしい花弁をすべて散らしてしまった……
彼の死より先に、白薔薇の花が散った。
私は早々に会話を切り上げ、まだ話し足りない彼女を残し、その場を後にした。
「……あいつ、妊娠してたんだよ。だけど、俺がおろせって言ったんだよ。当然だろ、育てられるはずないじゃないか」
延々と居酒屋で管をまいたあげく、彼はそう呟いたのだった。
ウイスキーのグラスを握りしめ、それを吝嗇になめながら、まるで吐息に紛らわすように狡猾にそう漏らした。
新しい女は彼の心の空隙を埋めただろうか。
そんなはずはないだろう。
一滴の潤いはますます喉を乾かせる。傷口から染みて、激痛を彼にもたらすだろう……私は、何故、こんなことをしているのだろう。
「別れることになったよ」
笑顔で、彼が夢に出てきたのは、葬式の後のことだった。
おかしなことに、誰の葬式だったのか思い出せない。あるいは夢の中でよくある、本来知らないはずのことを知っている、あれだろうか。
誰のものとも知れない葬式。
その後に、彼は私の夢中の褥を訪れたのである。
「別れる? 誰と?」
私は朦朧とした思考のまま、馬鹿みたいに鸚鵡返しを重ねる。彼は、笑った。
「馬鹿だな、あいつとに決まってるじゃないか」
まるで学生時代のような晴れやかな笑顔で顔を上気させ、彼は言った。
「お前にも、苦労かけたな。すまなかった」
それはあたかも死にゆくものが後に残されるものにかける言葉のようで、私は身の内がわなわなと震えるのを知った。
それでは、死んだのは彼だったのだろうか。
葬式というのは、他でもない彼の死を弔うものだったのか。
「……お前、死んだのか」
私の声に、彼は答えない。
晴れやかな笑みを浮かべたまま、そっと褥から足を外した。はだしである。血管の浮いた、武骨な足……それが妙に白く、私は死の点景を垣間見た気がし、蒼白になる。
「待て、お前、何処に行く気だ」
彼は答えない。
そのまま、踵を向けて去ってゆく。
闇へ……深々と更ける夜の闇の、暗がり、もっと深いその場所へ……
目が覚めた時、頬がしとどに濡れていた。
彼のために泣いたなどと思いたくはない。昔から、私の仇敵ではないか、あの男は。そのまましばらく夢の余韻をさまよい、朧げな意識で、私は彼の死について考えた。
彼は本当に死んだのか?
……否。あれは夢の見せた幻である。
私は誰の葬式にも出ていない。
それを確信するまで、四肢は呆然と力なかった。涙と一緒に長年の精も流れ、尽き果てたかのように思えたのだった。
彼は死んでなどいない。いまだ、俗世の汚濁を吸いながら生きている。その目はすさんだままだ。
「お前が死ぬ夢見たよ」
ある日、告げると、彼は発作のような爆笑に身を打ち震わせた。
「俺が死ぬ夢? 何で?」
「何でかな、まぁ、夢だから」
ひとしきり笑い転げた後、すうっと笑いの波が引いて、ぼそりと言った。
「お前の、願望じゃねぇの」
……沈黙。
言葉の多寡などものともせぬような有無を言わせぬ、雄弁な……。
私は、苦笑した。
「お前、ほんとに何言ってるんだ? 疲れてんじゃないの」
「そうだな、俺、疲れてんだよ」
そう告げる相貌は疲労に潤み、確かに疲れている。疲れ切っている。
いまだ若い灯をともす肉体に反して、その魂はまるで枯れ切った老人である。死の床に沈み、あとは来る絶望を待つだけの老人。
彼は最期、死の光を見たら、あまりの安堵に涙を流すかもしれない。絶望は希望となって、彼の乾いた瞳を恵みの涙で潤わせることだろう。
……あと、少しだな。
私は思う。
何があと少しなのか、もはや私にも分からない。
勝った、あの日私はそう思ったのではないのか。
復讐はもう遂げられ、とっくに終わっているのではないのか。
ならばこの私の内側からじわりじわりと滲んでくる、この卑しい感情は何なのか。謀略は、観察は。
「……あの人、最近、どう思う?」
暗喩の死の床にあるのは、散った白薔薇も例外ではなかった。
日に日に瑞々しさを失い、路傍で干からび、白茶けてゆく花びら……それをもうあの美しい花だったと認めるものは何処にもいないだろう。あとは朽ちて、風化するのみ。
「佐代子さん、心配性すぎるんじゃない」
私は世間知にたけた旧友の皮をかぶって、彼女の悩みを時折聞いてやる。しゃれたカフェで、チェーン店のコーヒーショップで、あるいは彼と彼女の家、その食卓で。
彼女の唇は乾いている。
瑞々しく朝露を宿したあの美しい花弁はもはや影もなく、私は大人しく彼女の話に耳を傾けるふりをする。
愚痴、愚痴、愚痴。
あんなにも無垢だった白薔薇は散って、地上の埃にまみれてしまった。私は乾いた瞬きを繰り返し、何度も何度も、相槌を打つ。
「いつも聞いてくれてありがとう、樋越くん」
まなじりに浮かんだ涙には計算の匂い。
彼女は眼前の男が昔自分を崇拝していたことを薄々気づいている。
「いいえ、どうってことないよ」
さりげない微笑。
私は何のためにこんなことをしているのか。
一体、いつまで続けるのか。……最後まで?
最後とは一体いつのことだろう。
「……樋越くん、あの人、女の人がいるみたいなの……」
今更、と失笑したいのをどうにか堪え、私は痛ましそうに眉根を歪ませる。
地に落ちた白薔薇の残滓は、今更に世間を知ってゆく。今更知ったところで、もうどうにもならぬところまで来ているというのに。暢気なものだ。
「悔しい……」
彼女はそう言って、泣いた。
彼女の華奢な肩を抱き、私は幼子をあやすように優しく抱きしめた。小さく震える体は熱く、湿っぽく、けれどだからどうだと言うのか。これが私の思い描いた勝利なのか。これが? こんなことが?
「……樋越くん」
耳元で囁かれる熱っぽい声音。
揺らめく劣情の気配は、とても花のものとは思えない。
朝露の輝く白薔薇。散った花びら。埃にまみれ、人々の足に踏みつけられて、やがて風化する……私は、彼女を拒まなかった。
(つづく)
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