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マレーシア備忘録❻ 古都マラッカ編

プトラジャヤからバスで6時間半ほど揺られて
今回の旅の目的の大きな部分を占めていたマラッカに上陸
マラッカ州には三つの行政区分があって、東側がアローガジャ(Alor Gajah)地区、そして西側がジャシン(Jasin)地区、で私が行ったのは中央に位置するヒストリカルシティとしての市政都市「マラッカ」
資料集で見てからずっと来たかったマラッカ
町全体が世界遺産なんてどんな場所なんだろう
移動中のバスでは道路の下にスラムも見た
やっとついたマラッカセントラル
昼ごはんに入ったサブウェイは外よりも暑くて本当に中にこれ以上いたらまずい、という危機を感じて脱出
サウナ以上のあのサブウェイの暑さを超えるサブウェイに私は死ぬまでに出会うだろうか、本当にそうやって思った笑
なんで店員さんあんな平気な顔していられたの?ってくらい
その後はバイクに乗せてもらって移動したんだけどこれも燃えるように暑かった 笑
今、文字を打つ焼けた腕がその証拠
この日焼けのほとんどがマラッカ滞在期間のような気がする

マラッカという歴史都市
イスラム教を導入し、スルタンが統治する王国であったマラッカ(ムラカ)朝は、今日のマレー世界の源
だからマレーシアの始まり
15世紀初頭に築かれた王国がこれほどに繁栄出来た理由はマラッカ海峡
季節風を利用して東西へ貿易船が行き来し、シルクロードに引けを取らない海上の道として発展
陸のシルクロード、海のマラッカ、みたいな?
これほどの発展を見せた魅力的な土地は外から見ても魅力的
アジア機略を進めるヨーロッパ諸国にとってマラッカは垂涎の的そのもので
マラッカは16世紀初めのポルトガル
オランダ
イギリス
と数世紀にわたる外国支配の歴史を重ねた
町に残る各国の残した史跡は3カ国が涎を垂らして奪い合った証拠、そしてその中で必死に変容して来たマレーシアの国そのものを映す歴史とも取れた

写真左側は1511年にマラッカ王朝を駆逐し植民地化に乗り出した大航海時代の覇者「ポルトガル」によって作られたファモサ要塞史跡(サンチャゴ砦)
中世ヨーロッパのデザインがいかにもって感じでポルトガルですって自己紹介された気分になった
入り口には1511年にオランダとの戦いに備えて作られた大砲
近くには歴史を詳しく綴った看板があって暑いのを忘れて読んだ
マレー語だけじゃなくてちゃんと英語もあった、助かる助かる
作られた当時、この砦の外側は海
サンチャゴ砦からマラッカ海峡の始まりまで続く700メートルはすべて埋め立て地
後にこのマラッカを征服したオランダの東インド会社もこの要塞を利用した
後から植民地支配する国って前の国が残したもの使えるんだな、、なんか省エネ

石碑からEVANS家が代々継いできたことがわかる

真ん中ザビエル背景はセントポール教会礼拝堂史跡 (St. Paul’s Church)
セントポール教会・礼拝堂史跡は丘の頂上にあった
1521年からここにあるのかー、、
ここはマレーシアだけではなく東南アジア全体で見てもキリスト教伝来を伝える貴重な場所
西欧の列強各国がアフリカ大陸の南端、喜望峰を廻って、アジアへ向かう航路を確立するよりずっと前の頃
15世紀末までマラッカを含む東南アジアの国には、インドから伝来したヒンドゥー教、仏教、アラブからのイスラム教が布教されてて
この場所が象徴するキリスト教のアジア伝来が行われたのは16世紀の大航海時代
この時期はローマ教会が免罪符を売っていた時期、ルターの宗教革命
ルターといえばの宗教革命では
教皇位の世俗化 と、
聖職者の堕落 が起こっていたカトリックが否定されて
プロテスタント派が偶像崇拝廃止し「聖書」のみを信じようという思想をドイツやイギリスなどヨーロッパ各地に広げつつあった
カトリック派はたまったもんじゃない
プロテスタント派の拡大を恐れて新天地をアジアに求めイエズス会が来た
イエズス会と言えばのフランシスコ・ザビエル
ここにあったザビエル像はなぜか右手がなかった笑
歴史に詳しい現地の子になんで?って聞いたけど知らなかったから多分ただ壊れただけ
そのザビエルはイエズス会・極東アジアの責任者として1545から1552年に何度もこの教会に来て布教活動を行った

知らなかったんだけど、面白いことにここでザビエルは日本人に会っている
このセントポール教会で知り合ったのは日本人の元武士アンジロウ
元武士だった彼は誤って人を殺し、故郷の鹿児島を離れマカオ経由でアジアを回っていた鹿児島生まれの日本人
やっぱ訛ってたのかな鹿児島弁とか、強めの
その彼がザビエルが日本に来たきっかけというから驚いた
言い方強いけど人殺しが日本キリスト教伝来のきっかけってなんかすごい
ザビエルは彼が人殺しって知ってたのかな
1552年12月に46歳で殉教したザビエル師の聖骸は、インドのゴアへ移送中9ヶ月の間、マラッカの教会で安置
私は今もここにあると思ってザビエル像の前でしばらく地を噛み締めてた笑
恥ずかしい笑
帰って調べてみたらザビエルの体は部位ごとに埋葬されている土地が違うみたい
広く知られているとポジティブに捉えたいけど、気の毒な気持ちが勝つ
死んだ後体がバラバラって私ならやだ
ここは今も世界中のカトリック信者の神聖な場所になっている
中ではギターを抱えたストリートミュージシャンの歌声が聞こえてきた
綺麗な歌声
綺麗に響く建物だから尚更綺麗に聞こえたような気がする
最初にマラッカを支配したポルトガルはカトリック

次の支配者となったオランダとイギリスはプロテスタント派、だからカトリックが建てたこの場所はオランダとイギリスの支配時期には整備されず味のある感じになってるらしい、確かに他の建物に比べて朽ちてた、面白い


セントポール教会礼拝堂内部

ザビエルで盛り上がりすぎた
最後に写真右のオランダ広場
マラッカとネット検索すると出てこないことがない、赤っぽい景色が印象的なスタダイス広場
セントポール教会礼拝堂からスタダイス広場に降りると
オランダ時代の占領行政ビル
クライストチャーチ(キリスト教プロテスタント派教会)
時計台
が迎えてくれた
中央にはビクトリア噴水、手前には風車
こちらはいかにもオランダです!!という感じ
こんなに近い距離なのに違う土地を歩いている感覚になった

手前ビクトリア噴水
マラッカ川手前にオランダが使っていた大砲


クルーズが浮かぶマラッカ川は濁ってた
イギリス植民地下の影響?英国ロンドン発祥のハードロックカフェを発見
涼みに入った、久々のトイレットペーパー付きトイレに感動 笑
いろんな歴史跡を見た後だったけどこの時ばかりはイギリスに感謝した
夕方、友達たちがPantai Pengkalan Balak Melakaというビーチにバイクで連れて行ってくれた
道中のマラッカの景色と 夕日と 風と スリルある運転は多分生涯忘れない笑
大好きな時間だった
思い出したけどマレーシアの好きなところ、夕陽が見れる時間が長い、あとマラッカなんかは特にだけど遮る建物が少ないから夕陽が沈むまで眺めていられる
海では暗くなるまで夕陽を見た、パステル色のファンシーな色から、ガーーーーーっと力強い炎みたいな夕日に変わって、サービス精神旺盛な夕陽が沈んだ


Pantai Pengkalan Balak Melaka


同じ日と思えない力強い夕陽

夜は賑やかなマラッカ旧市街(チャイナタウン)のジャラン・ハン・ジェバット(Jalan Hang Jebat)、通称ジョンカータウンでご飯を食べた
夜に行ったからパサ・マラム
マレー語で「パサ」=市場、「マラム」=夜
かなりカラフルだった
そもそも中華街だから通りの門や寺の装飾も豪華だし加えてライトアップの電飾だらけ
日本ではクリスマス以外あまり見ない光景だけどマレーシアはどこに行ってもギラギラしてる
ここで夜ご飯に念願のマラッカ料理、海南チキンライスボールを食べた
マラッカ料理とは言えマレーシア中で食べられるチキンライスボールだけどマラッカだけはご飯がコロコロっと丸く握ってある、可愛らしい見た目が特徴
美味しかったなあ
ご飯を食べている間どこからか人がやってきて歌が始まって
その代金をもらいにテーブルに箱を持った男が回ってくる
あ〜次はなんて断ろうかな〜〜チキンライスボール美味しい

チキンライスボール

次の日の朝
クダ州発祥のご飯屋さんに行った
コーヒーを頼んだ やっぱり甘い 甘すぎる
普段ブラックの私は毎回このギャップにやられる笑
大好きなロティ・チャナイも食べた
その後入ったコンビニのタバココーナーでもやられた
タバコのパッケージが怖すぎる笑
あえて書かないでおくけど警告の域を超えてホラーにすら見えた
マラッカ最終日
宿の洗面台の底がひょんな事で抜けた
マラッカを出る直前マラッカ料理のミースープを食べた

鶏ガラスープにミンチ肉と、はんぺんと蒲鉾( Fish cake :フィッシュケーキ)が入った日本で言うところの塩ラーメンのようなもの


これがあまりにも美味しかった
マレーシアにもこんな優しい味があるのね
マラッカ最後の思い出の優しい味










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