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マレーシア備忘録❶ クアラルンプール編

昼も夜も見に行ったKLのシンボル、ペトロナス・ツイン・タワー
1998年に日本と韓国の建築会社によって作られて以後、私が生まれた2003年まで世界で一番高いビル
日本の建築会社が携わっていたからか伊勢丹(現地ではアイセタンと発音する)や紀伊國屋が入っていた

ツインタワーの中の紀伊國屋



印象に残っているのは写真のツイン・タワー手前の橋から見た景色
看板を読むと独特な橋の形状は「sirih junjung」というマレー人の伝統行事で作られる葉かざりからインスパイアされたらしい
都市中心部のシンボルエリアにマレー人の伝統を取り入れる、さすがマレー人が一番多い都市だと思った
4000を超えるダイヤモンドパネルLEDがギラギラ光る
トンネルを抜けるとツインタワーがより近く見えた
でも私はツインタワーよりその下にある大量の真っ白な墓に驚いた
首都のシンボルの真下に墓、、、東京タワーの真下に墓のようなこと、、?
結局異様な光景の詳細はわからなかった
現地の子がマレー人の伝統的な墓であること、男女で石碑の装飾の細さや長さが違うと見分け方を教えてくれた

東京23区の半分にも満たないマレーシアの首都だけど
それでも歩くだけで時代の流れ、植民地支配下から急速な近代化までが一気に感じれて本当に面白い
大学の講義で習うこととゼミで調べてることが実際見られるのが嬉しくてしょうがない
錫鉱山開発が発展させたこの場所は、錫鉱山を巡っては激しい闘争が起こった
土地の所有権をめぐるマレー人同士の戦い、鉱山開発の実権を握っていた中国人の秘密結社間の争い
特に1866年から7年続いたスランゴール内乱は英国植民地支配の契機になった
Kualaは「河口」Lumpur 「泥の」 泥の河口

市内を南北に流れるクラン川とゴンバック川の合流地点に立つマスジッド・ジャメ(Masjid Jame)

ここがクアラルンプール始まりの場所
19世紀の半ば(1857年)にこの川の合流地点から上陸したマレー人王族が複数の中国人を率いて内陸部に分け入り、アンパン地区に錫鉱床を見つけた
ここから開発が始まった
イギリスが近代的な技術を持ち込んで本格的な開発が進んで、これらに発展がクアラルンプールを育てていく
結果、もともと河口の港(クラン港)を中心とした街が川に沿って内陸部へ変わって行った
最初の上陸地マスジット・ジャメの近くにイギリス植民地支配の象徴である旧植民地政庁(次の記録で出てくる)、スランゴール・クラブとかがあって狭いエリアの中でその歴史の流れがわかりやすく見える
ぱーっと見渡してこれだけの流れが見えるのは貴重

イギリス資本の影響力は大きかったけど鉱山開発を主に進めたのが中国人だった
1891年時点で総人口のうち7割を中国人が占め「華僑による鈴鉱山の街」と呼ばれた
中国人はすごい
どこでも何でもやってのけてしまう強い
鈴鉱山を巨大ショッピングモールに、華人の街を現在のマレー人の街に、変えたのは経済(NEP)と工業開発
初期の経済政策の中では途上国では珍しい分散型開発モデルを実行していて、(どうだっていいけど私が講義で苦戦したところ笑)マレー人の多くは農村にとどまったけど1985年のプラザ合意後の外資進出によるKLへの人口流入がKLを製造業の街に変えた
その結果農村からマレー人が移り2010年以降には人口のほぼがマレー人になった
講義を受けてた感じでは、「ブミプトラ政策で優遇されたマレー人が住んでんだ」と一瞬で解釈しかけるけどその歴史はもっと前からだったと初めて知った

街を歩けば肌でも感じた
明らかに中華系が少ないし
中心部は銀行をはじめとするビジネスビルがほとんどだけど
観光客か、働くためにマレーシアに来た会社員か、マレー人か、という印象
クダ州では中心部によればよるほど中華系が増えて
金融に関わる職業は中華系!の印象だったから歴史背景で知ってたとはいえKLの華人の割合は想像以上に少なく感じた
クアラルンプール街歩き楽しい楽しい







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