幼稚園バスの事件に思うこと
静岡県で幼稚園バスに園児を置き去りにして死亡させてしまったと言う悲惨な事故が起きた。
許せない話である。園児を守るべき責任があるにもかかわらずバスに置き去りにする、いないことに気がついても家庭に連絡しないなど元教員経験者としては考えられないことだ。
記者会見もあまりちゃんと見ていないのだがひどいものだったらしい。恐ろしい話だ。
この罪は一生かけても償えないのだろう。失った命は取り返しがつかない。子を持つ親の心情は穏やかじゃないはずだ。
さて、こんな話はテレビのコメンテーターがカンペを読むが如く話している内容だが一応私も憤りを感じているということを伝えたく書いた。
今回はこんな誰でも思うことを言いたいのではない。あえて言わしてもらうと今回の事件は本当に幼稚園側だけが悪かったのだろうか?と言うことだ。
教育現場は多忙だ。経験したからわかるがとにかくやることが多い。小学校は朝7時に学校に行くと教室の換気と授業準備をする。8時前に子どもが来ると宿題のチェック、朝の活動、そして休む暇なく1時間目から4時間目まで授業。給食指導の後は若手は子供と外で遊ぶ。その後掃除指導に5、6時間目の授業だ。やっとこさ子どもが帰っても提出書類や行事の準備、事務会計に保護者対応や諸々の会議、帰る頃には10時を過ぎていたなんてざらにある。思い出しただけで頭痛がしてきた。これだけこなしてミスると管理職からの叱責、保護者からのお叱りがくる。溜まったもんじゃない。代わりにやってくれと投げ出したくなる。
これはあくまで一例だが多かれ少なかれ全国の教育関係者はこんな毎日を送っている。逃げ出した私からすると本当にすごいと脱帽する。
毎日毎日限界なのである。コップで例えると、水が溢れそうな状態だ。いや、少しづつあるれている。その溢れた水の中に今回のような見落としがあったとも言えるのではないか。
もちろん、危機管理を徹底する。自治体で注意喚起をする、教員一人ひとりが注意すると行くことは言うまでもなく大切なことだと。しかし、それは溢れそうなコップに対して「こぼれそうだぞ注意しろ!」「絶対にこぼすなよ」「こぼしたらお前の責任だからな」と言っているようなものだ。
問題の本質は教師の労働量にあるのではないだろうか。子どもという1番大切な宝を預かる仕事なのだから責任は伴うからこそ、余裕が必要な仕事なのだ。余裕があれば子どもに手が回る。余裕があれば急がず子どもの確認ができる。余裕があれば家庭に連絡する時間も取ることができる。余裕とはサボりではなく心のゆとりだ。これ以上コップに水を注ぐのではなく、水をこぼさないために水を減らして空白を作るべきなのだ。
今回の事件で園児の確認を徹底することにより、置き去りにするような悲惨な事件は無くなるだろう。しかし、コップの水は未だに溢れそうだ。他の予想もしなかったことで子どもの命が失われてしまう可能性はまだ十分にある。溢れてからでは遅いのだ。覆水盆に返らずである。
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