【短編小説】「蛾の話」第五話
いつからそこにいたのか、背後からうすい手のひらが正木さんの両肩を包みこんだ。
「まあまあ、会長さんもいずれわかってくださるわよ」
白髪まじりの髪をひとつしばりにした小柄な女性が観音さまのような笑みを正木さんに向けた。
「……あっ、あっ、そうね。やだ、わたしったらつい熱くなっちゃって」
我に返った正木さんがあわてて笑顔をつくった。
「そうよ~。セルラは邪気を好むんだから、せっかく邪気払いをしてたのにもったいないわよ」
「そうね、そうね、そうだったわね」
「さあ、正木さん、バーベキューのつづきをしましょう……」
(エ~~~~~~~)
「つっ次は消防署に通報しますからね!」
家に戻ろうとしている正木さんに自治会長はそういって帰っていった。正木さんとその女性も鉄の門のなかに消えた。
そこからお酒の量がふえたのか話し声も笑い声もバーベキューの煙までもが倍以上にあがりつづけた。正木さんの甲高い声もさらにおおきく聞こえる。
「……いま思えばだけど、息子も主人もセルラに感染してたんじゃないかしらって思うのよねえ」
「息子は結婚してからおかしくなったし、主人も女遊びばかりで帰ってこなくなったと思ったら脳梗塞で倒れてあっというまで」
「ほんとうにさんざんな思いをしたけど」
「ほんとうに悲しかったけど」
「ほんとうに寂しかったけど」
鉄の門のなかでいくつものあたまがうなずいていた。
「でもね、災い転じて福となすっていうのかしら。セルラのおかげでみなさんのような優しいひとたちと知り合えるなんて」
う、うっうっうっ……すすり泣きが聞こえる。正木さんは泣き上戸らしい。
「そうよ、ここにいるひとたちは辛い目にあってきたひとばかり」
「わたしも」
「わたしもよ!」
「わたしだって」
ワタシダッテワタシダッテとざわざわとした不幸話大会がはじまった。セルラは邪気を好むという情報はどこかへ飛んでいってしまったようだった。
「でもねえ、セルラが炭を嫌うって盲点だったわよね」
「そうよ、それにバーベキューなんて炭と火でしょ。浄化でしかないもの」
「やっぱり昔のひとの知恵ってすごいわ~」
「わたし玄関とトイレに炭をいっぱい置いてるの。セルラ予防に消臭効果までばっちり!」
「暖もとれるし、お米もお水も炭入れるとおいしくなるのよ」
「『生活に炭を取り入れましょう!』って動画で柴原さんもいってたわ」
「いってたいってた!」
──「慶ちゃん、もうこっちにいらっしゃい。キリがないわよ」
ダイニングテーブルでは祖父と祖母が顔を見合わせて困ったようなあきらめたような表情を浮かべていた。
「正木さんが急に七輪で魚を焼きだしたのなぜかしらと思ってたけど」
「まさかだったなあ」
「……真面目で素直で、寂しいひとだから」祖母が小さなため息をついた。「だから、ずっとなにかに怒ってるし、いつもだまされちゃうのよね」
つづく