【短編小説】「蛾の話」第二話
夜がながれるタクシーのなかで、もうすこしで言葉になりそうな思いをつかもうとしていた。
一駅分、ものの15分ほどでワンルームのマンションに着いたぼくはシャワーを浴びてスウェットに着がえひと息をついた。バスタオルであたまをふきながらマットレスのうえに座り、ぼうっと低い天井のすみを見上げた。
──あの奥さんは正木さんだ。ちりぢりだった記憶がつながってくる。ぼくの両親は共働きだったから小学生の夏休みのほとんどを祖父母の家で過ごした。だからあのあたりの子どもたちともお昼を一緒に食べたり花火をしたりと幼なじみのように遊ばせてもらった。
ぼくと同い年だったテルくん、妹のトシミちゃん。一学年うえでぼくたちの世話を焼いてくれたマドカちゃんとその友だちの双子のエミコちゃんとミエコちゃん(どっちがどっちだかいつもわからなかった)あとは学年がふたつ下のトモミちゃんにマーくん、マコトくん。
正木さんとか奥さんといってるものの、あのひとは祖父母より年がうえで当時のぼくからすれば学年のはなれたリョウくんとナナちゃんのおばあちゃんだ。
子どものころからリョウくんとナナちゃんのおばあちゃんは歌舞伎の顔に似ていると思っていたけど今日のぼくの感想もかわらなかった。パーマをかけたショートヘアに面長の顔。細くて長いつり目におおきめの鼻、への字にむすばれた口もそのままだった。正木さんの家は高い掘に囲まれている。堀からはみ出した松の木もきちんと並んでいて、凝ったかたちの鉄の門から玄関までが遠い正木さんの大きな家は家というより屋敷というほうがしっくりきそうだった。
ぼくはリョウくん、ナナちゃんと遊んだことがない。そもそもふたりがなんとなく外に出てくることさえなかったように思う。たまにお母さんに連れられているふたりを見かけても「リョウくん」「あ、ナナちゃん」「ばいばーい」程度のやりとりしか記憶にない。公園や道路で遊んでいてもリョウくんとナナちゃんが混ざっていたこともない。ただぼくや近所の子どもが道路で遊んでいるとあの奥さんが二階からいつもぼくたちを見ていた。いま思うと、たぶんぼくたち、いや、ぼくのことが気にくわなかったのだろう。たしか5年生のころだ。ぼくがひとりで壁打ちのキャッチボールをしていると、あの奥さんがぼくをじっと見ていた。子どものキャッチボールをながめる大人はときどきいるからなにも思わなかったけれど、ある日、祖母がいいにくそうにぼくにいった。「あのね、慶ちゃん。正木さんのところの壁がへこむからボールをぶつけるのやめてほしいんだって」
壁がへこむ? ボールがあたって壁がへこむなんてあるのだろうかと次の日に堀にボールをぶつけてへこんでないことをたしかめた。おばあちゃんはなにをいってるんだろうとぼくはボールを空に放り投げミットで受けた。パシンとミットのなかでボールが軽い音をたてると、すぐに正木さんが二階から歌舞伎の顔をのぞかせぼくのほうを見た、というよりはっきりにらみをきかせていたから、キャッチボールはその日かぎりでやめた。
あのころ近所のお母さんやおばあちゃんがみんな優しいひとに見えていたぼくはちょっと寂しい気持ちになって、そこからなにも思ってなかった正木さんが苦手なひとになってしまった。
それからいくら思いだしてもリョウくんとナナちゃん、リョウくんたちのお母さんがあのひとと話しているところや出かけているところを見たことがないことに気がついた。おじいちゃんやお父さんの姿も見たことがない。夏休みだけしかいなかったぼくが知らないだけなんだろうけど。そういえば、あのひと、正木さんはなんていってたんだっけ。
「ねえ、新藤さん”セルラ”ってご存知?」
ぼくは枕もとのスマホに手をのばし”セルラ”を検索した。
つづく