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【短編小説】「いつでもこわれてる」後編


「ごめんね。時計がこわれてて」
 わたしの意思を無視して勝手に口から飛びだすようになったのはいつのことだっただろう。
 幼いわたしが必死に考えた言葉。
「ごめんね」「時計がこわれてて」

 何千何万の遅刻に繰りかえしていたから、もう文字の羅列として神経に刷り込まれてしまっているのではと思う。
 約束をやぶらないで
 なんで遅刻するの
 いい加減にして
 うそつかないで
 ちゃんとして
 信用失くすよ
 非難の嵐がすぎるまで、わたしは黙って下を向いたり今度から気をつけるね申し訳ありませんすみませんと耐え忍ぶしかなかった。

 何度、怒られたことだろう。
 何度、直そうとしたことか。
 でも、直らない。
 だから相手が怒りだしても、もうわたしは笑ってわり切るしかないんだ。
 そしてわたしは『待ち合わせ』を人生から遠ざけた。
 世間からわたしの存在をできるだけ消した。
 それはとても寂しいことだったけれど、ひとに迷惑をかけることはぐんと減った。

 いまも思いだす。数年前に隆行の実家に招かれたこと。
 だれかの家に招待されるなんて小学生以来だった。
 なにか手土産を、と百貨店に寄っただけで約束の時間より一時間も遅れてしまいあせっていたら15分ほどだった。
 あのときはほんとにこわれてしまったかと腕時計を何度も見直した。隆行が予定を早めに伝えてたんだとわかって、気を遣ってくれたことがうれしかったし、やっぱりわたしはこんなときでさえダメなやつなんだと悲しくもなったっけ。
 隆行のお母さんは揚げものやお寿司、お洒落なサラダを用意してくれていて、みんなでごはんを食べてとてもたのしかった。

 隆行と出会ってからもわたしは昼間に眠って夜も部屋にこもりきりだった。月夜の晩以外は。
 満月の圧は、あふれそうになっているわたしの衝動をいとも簡単にやぶってしまう。抗うことができないから、わたしは街をうろついて適当な男を探すのだ。けして、空虚だとか、うっぷんをはらしているわけじゃない。

 家庭環境が複雑だったからそうなんだよ。
 幼少のころに愛情をもらえなかったひとはおだやかさより刺激を求めてしまうから。なんて隆行までそう思ってたらどうしよう。
 わたしは刺激なんかいらないのに。いま隆行と隆行の部屋でねこのようにじゃれあっているときがいちばんの幸せなのに。

 だったらなんでそんなことをするのかって?
 こわれているわたしの言い分をそっときいてくれますか。
 うれしすぎたり喜びすぎるとわたしは噛みつきたくなる衝動が抑えられなくなる。やっちゃいけないことはさすがにわかってる。だから隆行と会えるとうれしくてしょうがないんだけど、つらい。
 一度、隆行の肩に”くわっ”と歯を立てそうになったときは、あわてて両手でじぶんの口をふさいでひっくり返りそうになった。
「なにやってんの」「ううん、なんでもないよ」

 わたしは嚙みつく相手を探しにふらふらと街に出る。
 飲み屋街で声をかけてくる男は大抵じぶんの都合だからわたしにも都合がいいのだ。
 相手がわたしのからだに夢中になっているころを見計らって、わたしは心置きなくガブリとやる。
耐える男もいれば、舌打ちをして「……ッテェ」という男もいるけど「ごめんね。気持ちよすぎてこわれちゃった」わたしはへらへらと笑う。
相手もだったらしょうがないねとへらへら笑う。

 隆行と会うたびたまっていた噛みつきの衝動を空っぽにするため、わたしはいつも一生懸命だ。
 ねこだったら甘噛みというものが許されているのに、わたしは人間だから許されていなくて自力で解決するしかない。
 隆行と一緒にいたい。ほんとうは隆行に噛みつきたい。
 食べちゃいたいぐらいかわいいと最初にいったひとはわたしと似たようなひとだったのかもしれない。
 ひとの脳というものはやっちゃいけないことをやってしまうもの。それは一部のひとだけじゃなくて、人間という生きものはそうなっているはずだ。ええと、そうだ。

 たとえば、いまからあなたに5秒あげます。
『ピンクの象を想像しないでください』
 ね? どう? 想像するでしょ。
 え? しない? そんなこといわないで。
 それが脳内ですまないひとがいるだけだと思うんだけど、だからってどうしたらいいのかはいつも個人にゆだねられていて、わたしもこれ以上どうしたらいいのかは正直わからない。

 このごろでは満月の日に隆行から電話がかかってくるようにもなった。
〈帰ってきたら連絡だけはしてね〉
 行為が終わればわたしは静かに怒っている隆行のマンションに向かう。
 人間の本質みたいなことを隆行は口にするけど、わたしは人間じゃないかもしれないから隆行の忠告はクラシックのように聴こえてあたたかくて気持ちよくていつも眠くなる。
 ひとが胎内にいるときってこんな感覚じゃないかと思いながら。

 今日も隆行の怒ったまなざしに見つめられたまま眠ってる。
 遅刻もしない。満月の晩にふらふらしないわたしになりたい。
 だけどそうなってしまったら、きっとわたしはわたしじゃなくなってしまいそう。

 それでもこころから愛してる。わたしとしては。
 わたしがいうとぜんぶ嘘になるから死んでもいえないけれど。



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