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障がいの弊害

先週末(9月7日土曜日)、若者就労支援セミナーに参加した。家から車で数分のJ-STEP(清水ナショナルトレーニングセンター)で開催される。目的は静岡県内のひきこもりクン達を1か所に集め、触れ合う機会をもとうというものだ。
地元なんだし、ぜひ参加してほしいとプロジェクトの仲間から何度も頼まれ、顔を出すことにした。今回は午後のみだが、翌週には一泊二日の本格的なスケジュールが組まれている。

「何やんの?」と訊いても、明確な説明はない。コイツ、自分でも分かってないだろ。
「今回は私たちNPOの主催というより… 」大学生のボランティアチームが主体になって運営するそうだ。彼女自身がNPO法人(青少年就労支援ネットワーク)に所属して日が浅いため、具体的な内容は把握していないらしい。
でもなんか、好きくない予感。

僕は「ボランティア」という言葉の響きが苦手である。困っている人のお役に立ちたい、その善意のかたまりのような笑顔の人たちを想像するだけで、正直引いてしまう。
別に人の善意を否定したいわけじゃない。学生さんが「若い人」たちの就職を支援しようといろいろ企画するのは、立派な行いだと思う。
自分の中にそうした気持ちや素養そようがない事を、自覚しているだけだ。

20代、障害を持つ人たちと知り合いになり、運動めいたことをしていた時期がある。
彼らは善意の「ボランティア」との関係性を忌避きひし、「介護者」という表現にこだわっていた。
”彼ら”と言っても純粋に友達として付き合ったのは2人で、どちらも骨形成不全症こつけいせいふぜんしょうという共通の障害があった。

骨形成不全症こつけいせいふぜんしょうとは、全身の骨に脆弱ぜいじゃく性があり、軽い外傷などで簡単に骨折をしてしまう疾患しっかんになる。
多くの場合、骨を形成しているタンパク質の一部であるコラーゲンに遺伝的な変化があるため起こる。 このコラーゲンの異常の程度により重症度が決まってくると考えられているが、2人とも最重度の部類だった。極端な話、くしゃみをしただけで肋骨ろっこつの折れる可能性があったのだ。

彼女と彼の短い生涯に関しては、また別の機会に触れてみたい。彼らと関わった数年間で、僕の中に人生観のようなものが形成された。それは多分、今に至るまで変わっていない。

脱線ついでに申せば、当時の表記は「障害者」だった。それがいつしか「障碍者」にかわり、今は「障がい者」が主流になっている。

「障碍」という文字はもともと仏教の言葉で、3つの表現の中で最も古い。
「ものごとの発生、持続にあたってさまたげになること」を意味するそうで、平安時代末期以降「魔物、怨霊おんりょうなどが邪魔することさわり」という意味で用いられるようになったという。

「障碍」は「しょうげ」とも「しょうがい」とも読むことがあり、どちらで読めばいいかわからなくなる。そこで明治時代以降は「しょうげ=障碍」、「しょうがい=障害」と使い分けるようになり、大正時代になると「障害」と書くことが一般的になった。

大東亜戦争後には「当用漢字表」(昭和21年)や「法令用語改正例」(昭和29年)の中で、「障害」と表記することで統一された。これに従えば、「障害者」と表記するのが正しいように思われる。

ところが、「害」は「公害」「害悪」「害虫」の「害」であり、当事者の存在を害であるとする社会の価値観を助長じょちょうしているのではないかと、意見する者が現れる。
「害」には語源的にも人をあやめるという意味があり、「障害」と表記することは不適切であると批判の声があがった。
そこで一時期、それ以前に用いられた「障碍」が重用ちょうようされる。
「碍」という漢字は「カベ」を意味し、中国・韓国・台湾など漢字圏において「しょうがい」は「障碍」又は「障礙」と表記されていることを例に、日本でも「碍」に改めたほうがいいという見解からだ。

ところが「碍」は多くの人が使う漢字でなく、「がい」の漢字をどのようにすべきか意見が分かれたことから、「障がい」とひらがなで表記したらいいのではないかとなってきた。
現在では「障がい者」を採用している会社や自治体が多く、HPやパンフレットに「障がい」と書かれているものも、多く散見される。

「障がい者」は誰にとっても差しさわりがなく、今後使われる表記となっていくだろう。
個人的には、「障害者」を使い続けるべきだと思う。歴史的には「障碍者」が正しいと思われるが、「障がい者」同様に意味が伝わりにくく、健常者側の”逃げ”に用いられる可能性がある。
「障害者」こそ健常者にとって最も差しさわりがあり、常に存在の意味を問うことができる表記と考えるのだ。

あまり踏み込むと完全に今回のテーマから逸脱するので、この辺で止めておく。
ただ一点、「障害者」には「障害を負った者」という意味があれば、社会的に「障害を負わされた者」という側面もあるのではないかとだけ、僕個人の見解を示しておく。また別の機会に考えてみたい。

話しを元に戻す。

「お役に立ちたい」気持ちなしに参加すれば、自身の偽善的立場を自覚せざるを得ない。ひきこもりクンと関わり合いたいと思ってはいても、彼らの助けになりたいわけじゃないからだ。
もっと言えばキミたち、ワシを助けてくれんか?くらいの心境なんである。マジで。

J-STEP運営団体のリーダーと、受付で顔を合わせる。
彼も道の駅プロジェクトメンバーの一人だ。週明けに予定されている全体会議の件で、ぎりぎりまで打ち合わせをしてから会場入りした。

当事者以外のボランティアと(進行を主導する)学生を含め、60~70人ほどが静岡県内から集まってきている。
これだけの人数が集まるなんて、それだけで大したもんである。
(次回に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす


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