弱さは強さ
明日は月1回の滝掃除の日だ。今回からは地元企業の有志が参加してくれることになっている。最初は先細りが心配されていたものを、やる気満々の現自治会長の活動が実を結び、参加者は増えていく傾向だ。
具体的には僕が編集長を務める地元広報紙を、事務所まで直に出向いて、手渡ししてくれていた。
これまでは自治会の班長さんを通して住民のみに配られていたものを、そこでどういう事が行われているか、企業側も知ることになる。
記事の中に滝掃除の報告を見つけ、ぜひ我々も参加したいと呼びかけがあったそうだ。
それをこちらは来月号で紹介出来るし、いい相乗効果が生まれて来たと思っている。
役所も、僕が相手をしている課とは異なり、オクシズ(静岡市の中山間地の総称)の職員は半分がそこを故郷とする人たちなので、対応が決して他人事にならない。
地元の人たちがこうした環境整備に積極的なのを知って、来年度の予算に盛り込み、バックアップをしようという動きが生まれている。
まずは(以前は在った)トイレだけでも設置できるようになれば、訪れる人も増えるだろう。なにしろむかしは、バスで街から観光に来たという場所だ。物見台まであったというから、条件さえ整えば観光名所としての復興も、夢物語ではないはずだ。
こういうんだと、モチベーションも上がるよなぁ。
そういう結構な話の反面、何度か滝掃除を手伝ってくれた引きこもりクンが今回は参加しないと、担当の女性から連絡をうけた。
外界と接触を持とうとする気配が少し出てきたとご両親も喜んでおられたところ、今は元の木阿弥、終日部屋に籠っているらしい。
参加した時に「地球平面説」や「古代都市論」などそっち系の話をし出し、僕が興味深そうに聞いていると(実際、嫌いじゃないネタ)、「こんな話、真面目に聞いてくれる人いると思わなかった」と喜んでいた。
ゲームなんかはチンプンカンプンだが、陰謀系で妄想の世界を広げる人は嫌いじゃない。次はなんの話するんだろうと楽しみにしていただけに、少し残念である。
だいたい、終日パソコンとにらめっこしている僕の今の生活は、半分引きこもりみたいなものだ。部屋にこもっていると、出かけるのも食事を用意するのも億劫になってくる。もともとがインドア派だから、動かないことが苦にならない。
それでも、モチベーションの部分で引きこもりクンとは多少違う。一応は、現状打破を目的に活動しているからだ。
今回の彼はまだ20代前半で、引きこもり歴も2年足らずのようだ。
引きこもる原因は人それぞれ、不登校や受験・就職の失敗、いじめ、人間関係、退職、病気などが挙げられるが、本人でも理由がはっきりしないものが多いらしい。
引きこもり当事者は、いわば自分自身を社会から排除している。
自身を「価値のない人間」と思い込み、「大人なら働くべき」「迷惑をかける人間は価値がない」という社会の暗黙のメッセージが、当事者をさらに追い込む。
本当は現状に満足しているわけではなく、苦しみながら引きこもっているということは、あまり知られていない。家族も、恥という意識から当事者の存在を隠す。こうして社会との接点が失われていく。
引きこもりの状態が長期間続けばそれは日常となり、意欲や欲望もそがれていく。分かっていても長引くほどにやめられないのが、「引きこもり」の実態ということになる。
最近、彼らと関わることで見えてきたのは、すべてが「引きこもり」になってからの対処療法であって、予防措置が何ら講じられていないことだ。
実際、「引きこもり」が社会問題になった1980年代から増加し、引きこもり人口は平成31年(2019年)の調査で、推計115万人(15~64歳、内15~39歳は平成28年発表)に達した。
2022年に行った内閣府のアンケート調査では、15歳から64歳までの年齢層の2%余りにあたる推計146万人に上っている。
深刻な労働力不足が叫ばれる中、「働ける」年代層がこれだけ日本の中で埋もれているというのは、大変な損失だ。
何より、生まれてしまった「引きこもり」層を社会に引き戻すのは至難の業だが、今後増やさないため何をすればいいか検討されている節のまるでない事の方が、はるかに深刻だと思う。
「引きこもり」になる原因は、ある程度分析されてきている。
その大きな部分を占めるのは、対人関係と言われている。
学生時代のいじめや職場の付き合い、失恋など、人と接することが苦手になり、誰とも会いたくない、関わりたくない思いから引きこもってしまう。
学生時代に不登校になった経験のある人ほど、引きこもりになる確率が高いと言われている。入学や就職など、環境が変わる際に(かつての経験から)大きなストレスとなり、新しい場になじめない孤独感や仕事上のコミュニケーションが上手く行かないなどから、引きこもりに発展していく。
だからと、学校でのいじめや職場での人間関係が容易に改善されるものではない。
ところがここでも対処療法的発想が優先され、「いじめをなくそう」だったり、「パワハラ」といった新語を生み出したりもする。
その結果、イジメやパワハラはさらに陰湿なものへと発展し得るし、隠蔽の体質が助長されたりもする。
対処療法は、いたちごっこにしかならないのではないか。
失恋に至っては、失恋するよりしないことの方が、人生において大きな損失と呼ぶべきはずのものである。
それが引きこもりへの引き金を引くのだとしたら、個人というよりは、社会自体が人間形成を阻害する大きな要因になっているとしか思えない。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす