男と女と
「LGBT理解増進法」とは、僕たちマジョリティ(多数者)に向け、性的マイノリティ(少数者)の存在を理解させようという理念法(基本理念を定める以外、具体的な規制や罰則については特に規定していない法律)である。
それ自体、大きなお世話というものであり、ここまで心の問題に踏み込んだ法律があるのは日本のみである。
ではそもそも、対象となるLGBTに該当する(と思われる)人たちの間では、互いの存在を理解し合い、認め合っているのだろうか。当事者によるとても興味深いレポートを見つけた。
文中の百合漫画とは、女性の同性愛や恋愛、それに近い親密な関係を描いたジャンルだ。
1970年代、男性同性愛者は「薔薇族」と呼ばれ、女性同性愛者はその対義語となる「百合族」という呼称が定着していた。
その性癖のない僕でも、子供の頃からゲイやレズと呼ばれる人たちの存在は知っている。ところがここに登場するゲイの彼氏は、異なる性的志向者を架空の存在と捉えている。女性同性愛者に、まるで実在するリアリティを感じていないのだ。
彼らにとって異なる同性愛者は完全な異物であり、互いを理解しようなどという気は初めからない。むしろそれぞれは、憎悪の対象にさえなる。
当事者にとって寛容や多様性などという概念は、むしろ矛盾にしか過ぎない。
己が愛する相手やその世界こそが彼らにとって人生の総てであり、翻ってそれは、僕たちの価値観そのものでもある。
その一点において、LGBTに総称される人たちと僕たちマジョリティ(多数者)は、想いを共有できるはずだ。遠い異国の殺戮よりも、自分の家族や集団を優先的に考えたとして、誰に責められる筋合いもない。
むしろ自分の妻や夫を、子や孫を、かけがえのない存在と胸を張れる人を、みな好ましく感じるはずだ。
そのとき大切なのは、理解する気のない(理解しがたい)相手を無理に理解しようとすることではなく、適度な距離を保ちながら、互いが傷つかないよう尊重し合いましょうとする態度だ。
引用文の末尾に現れる「LGBT活動家」だけが、感情ではなく政治的理念・野心・利害から、それぞれの生き方の相違を一緒くたにしているに過ぎない。
むしろ、理解しようと近づくほどに、嫌悪と憎悪は拡がるだけかもしれない。
だからこそ、日本人生来の倫理観に制限をかけるこの法律に不快の念を抱き、極めて危険と感じてもいる。
「理解増進」の先に待つものは、社会の混乱と分断にしか思えないのだ。
最後に、同性愛傾向の強かった三島由紀夫の言葉を紹介して終わる。
若き日に「一人の人間から学ぶことこそ」「人生を学ぶということ」。
それが多数者も少数者もひっくるめた、人間に対して本当の「理解増進」に繋がる、唯一の道かも知れない。
イラスト Atelier hanami@はなのす