日常からの切り抜き
(前回の続き)
夫に先立たれた75歳の静子。息子夫婦と高校生の孫と、一つ屋根の下に暮らすようになった。
自分で決めたことは、ぜったいに守るのが信条の静子。家族の私生活に表立って口出しはせず、気付かれぬようにこっそり陰から手出しをする。
フィットネスクラブに通い始め、水泳に励む静子。
新聞配達に来る青年と、孫の部屋から持ち出したバーボンで意気投合する静子。
その青年からパソコンを習い、手紙を細工しては息子の出会い系をやめさせようとする静子。
ながく想い続けた男の晩年に再会するため、届いたはがきをきっかけに老人ホームを訪ねる静子。
軽快なテンポに「日常」はよどみなく流れていくが、そこから一瞬を切り取れば、根源に対する気づきや問いが、絶えずなされているのを知る。
そう思うのは、(静子の息子)愛一郎の妻で、るかの母親である薫子だ。
仕事とはいえ、会いたくもない出版社の担当のもとへ出向く時、ずる休みをした子供時代とともに、ふと振り返る。それもつかの間すぐに現実に立ち返り、薫子は地下鉄の階段を下りていくのだ。
静子が通うフィットネスクラブで、ひとり浮いた存在の女性がいる。以前は数人のグループと一緒に行動していたのに、今はいつ見ても一人でポツンとしている印象である。その女性がバスに同乗していて、前に座る静子は後ろからの視線を感じながら、「微かに戦慄」するのだ。
それはこの「日常」から突然はるか彼方へと跳躍し、いきなり人の世の深淵に触れてしまった感覚を抱くからである。
オレって何気ない「日常」の中からも、こんな存在の真理を抽出しちゃうんだぜぃなどと志賀直哉あたりが書けば、嫌味な奴っちゃなぁと思うところだ。
しかし静子は、頭に浮かんだ思いをそれから先に進めることはせず、後ろから視線を送る彼女が仲間外れにされているのだとしたら、「その理由がまったくばかげたものであるのは間違いないわ」とだけ思う。
夫の十三は酒を一滴も飲めず、静子は自分への忠誠から50年間、アルコールを口にしなかった。
十三の死と共に十三の妻であることをやめる決心をしていたので、通夜のあと手酌でビールを飲み始める。
そうでありながら(どうして死んじゃったんですか)などと、時に問う。
こういう心理は、僕のような男にはなかなか理解しにくい。
静子自身もそれを「不思議」と感じ、しかしその「不思議」がどこから湧いてくるのか、把握できぬままにいる。
静子の「日常」は、そのようにして過ぎていく。
生と死の曖昧な境界を示唆しているかのようで、単にそれは静子の日常の行動パターンを述べているに過ぎない。
孫のるかは、そんなおばあちゃんとの会話の積み重ねを糧に、静子とは異なるこれからの未来を歩んでいく。
るかの自問は、今の静子がそうであるように、彼女の未来に待ち受ける答えとして紡がれていくのだろう。
生きる答えはいつも「日常」の中にあって、でもそれは具体的な姿かたちを成さないままに、たいがいは誰も気づかぬまま在るのだ。
それなら、それでいい。
「静子の日常」は、時にふと頭をよぎる仄かな想いや微かな戦慄と共に、こともなく過ぎていく僕たちの日常でもある。
イラスト Atelier hanami@はなのす
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