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裡なる珠

20代の僕は、日中は自然食品店で、夜に店を閉めると週に3回、遠方まで食材の仕入れに出かけた。仕入れのない夜はジャズ喫茶のカウンターで働く。
「働く」というと普通は生計を立てる意味になるが、賃金など一切ない。
仲間の一人に数件の貸家を営む親がいて、店の裏にある二軒長屋の半分をあてがわれ、そこで寝起きしていた。
家賃は発生せず、食事は店の仲間と一緒にとるからこれも掛からない。食材は、野菜も肉も調味料もすべてオーガニックだから、貧乏なのに超リッチな食生活である。
明け方に眠り、昼過ぎに起き出すと店番をしたり、地元や近隣の町まで注文の品を配達したりしていた。

自分のカネはないが集金バックをいつも片手に持ち、仕入れの途中で(かつてあった)本厚木のディスクユニオンに寄っては、目ぼしいレコードを購入する。翌日、それをジャズ喫茶に持ちこむと「いいの見つけたねー」なんてめられ、鼻高々になっていた。
店で鳴らす音楽も装置も僕にとっては最高峰なものばかりで、こちらの環境においても贅沢三昧ぜいたくざんまいな日常を過ごした。

僕のように中で実務を担当する者がいれば、医者や看護婦、大工さんや車の修理屋さん、工場勤務や鍼灸師しんきゅうしといった定職につき、稼いだ「外貨」を2つの店の資金にてる人たちがいた。
いわゆる「共産主義」を、特定の政党や団体と一切からむことなく、現場で実践じっせんしていたことになる。
内ゲバみたいな騒動そうどうも皆無だったし、続いていたら歴史的にも面白い事例になっていただろう。

そういう環境だから、関わるのは社会から何らかの理由でドロップアウトした人たちが多くなる。高校や大学を出て就職し、給料をもらって暮らしている大多数の人たちとの接点は、逆になかった。

たとえば店を訪れた人の中に、Eさん(本名で「僕は犯人じゃない」という本も出しているが、ここでは伏せる)がいる。

1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)にかけて、東京都内で発生した4件の爆破殺傷事件「土田・日石・ピース缶爆弾事件」というのがある。
1971年10月、都内日石ビル地下の郵便局で小包が爆発。郵便局員が負傷した。
同年12月、土田国保つちだ くにやす警視庁警務部長宅で小包が爆発。夫人が死亡し、四男が負傷した。
これらの事件で警視庁は元活動家を含む11人を逮捕する。裁判では死刑の求刑もあったが、判決は全員無罪。戦後史に残る冤罪えんざい事件だ。

Eさんは逮捕された一人で、政治思想を一切もたないノンポリ(nonpoliticalの略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人)である。
ある日突然連行され、睡眠も排泄も容易に許されない環境下で、身に覚えのない取り調べを受ける。
ストーリーはあらかじめ警察・検察側で用意され、その通りに供述するよう常に誘導(強要)されたそうだ。

他の連中はもう吐いたんだ、後はお前ひとりだけだぞ、いま吐けば俺の方から減刑してもらえるよう口を利いてやるから等々、被疑者を「落とす」ための手段をえらばぬ作り話で攻め立てられる。
最初は身に覚えがないから否定していても、長い拘禁こうきんが続き、何度も同じ話が繰り返されるうち精神的に追い込まれ、寝不足から思考も止まり、自分がやったかのような記憶のすり替られていくらしい。まさに洗脳に等しい行為だ。
そして、「自供」に追い込まれる。

のちにEさんは「自供」をひるがえし、全面無実を主張。実行犯(若宮正則わかみや まさのり牧田吉明まきた よしあき)が名乗り出た事で、東京地裁・東京高裁ともに無罪の判決が下る。

「無実の被疑事件で身柄を拘束された」ことに対し、Eさんは国と東京都に対して国家賠償を請求するが、東京高裁はわずか100万円の損害賠償だけを命じるにとどまった。
一度はでっち上げから社会的に抹殺されかけ、東京地検の求刑した無期懲役に対する見返りとしては、あまりにも軽い賠償額である。

最近では、袴田はかまだ事件において袴田巌はかまだいわおさんの無罪が確定したことで、警察・検察の闇の深さが露呈している。それに先立つこと40数年前、Eさんからの生々しい話が聴けたことで、社会に対する見方も僕の場合、当時から違ってはいた。
だからと、国家権力の全てが悪であるとまで極言きょくげんするつもりはない。私欲が先行し、誤った使い方をした場合に限り、民主主義の否定になりかねないというだけだ。
そして現在いま、政財官・大手メディア共に誤った使い方をする人々が、多すぎるように感じてもいる。

たとえば買い物に訪れたお客さんの中に、末期ガンにおかされた一児の母がいた。
若い母親だけに病の進行は早く、2度の手術から抵抗力も奪われ、最後に行きついたのが食の見直しだった。なんでも体にいいと言われるものは試してみる、そんなわらにもすがる思いだったに違いない。
幼い我が子を残しては死ねない、その一心で泥付きの大根や無農薬の玄米を買っていったが、すぐに店に来ることもかなわなくなり、代わって彼女の母親が訪れるようになった。穏やかな、いいおばあちゃんだった記憶がある。

亡くなったと聞きご自宅まで挨拶に伺った際、死というものをまだ理解できない三歳の女の子のあどけないしぐさに接し、あまりの切なさとお母さんの無念に思い至り、たまらない気持ちになった。おばあちゃんの寂しさをいっぱいにたたえたあきらめの笑顔も、頭に焼き付いて離れない。

最後の手段が「食」ではなく、最初に「食」こそが正解に近いのだろうが、元気なうちはそこに思い至らない人の方が多い。経済的な負担も大きく、どうしろと他者が言えるものでもない。

なんでもないように過ぎていく「日常」を文字通り命がけで生きた、名もなき人たちと接した経験が、僕のその後を決定づけている。
長くいた会社を辞めた時、何をしようか考え形にしたいと思ったのは、「普通の人」のうちに眠ったままにるはずの、生への賛歌だった。

Atelier hanami@はなのす


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