春の無言歌
死ぬことを一番恐れたのは、中学生の頃。一番死にたいと願ったのも、やっぱり中学校に通っていた時代だ。
毎日が鬱々として、就寝時など「死」のことばかり考える。
神という絶対的な存在は信じておらず、死ねばすべて、無に帰すものだと考えていた。
「無」になるとは、こうした思い悩む思考を含め、自分の意識がすべて消滅することであり、これが怖くてたまらない。
一方で、あまりにも鬱屈し続ける日常を解消するため、仰向けになった頭上に出刃包丁がぶら下がっていて、睡眠に入ると同時に落下してこないものかと思ったりした。
当人も知らない間に死んでいるのが理想で、これは今も変わらない。酸欠の空間に入った瞬間に意識が途絶える、一酸化炭素中毒なんかいいんじゃないかと考えている。
自分でやりたければ、気持ちよく逝ける方法をかつて知人の医者から教えてもらったが、そういうお勧めをする場ではないので、この辺でやめておく。
10代とは違った意味で暗い20代を送り、30歳を過ぎてからは「死にたい」とも「死にたくない」とも思わなくなった。
環境の変化とも無縁ではないが、20代の終わり、末期がんで世を去った父親の死への道程を共にすることで、観念的だった「死」が日常の一部として体感できるようになった。
「生」から切り離されるものが「死」ではなく、死もまた人間に備わった資質のひとつであることを、漠然と理解したように思う。
カンテレの月10ドラマ『春になったら』は、生と死が交錯するドラマだ。
季節ごと新番組をチェックするが、僕が見たいのは一に映像である。撮影手法やカメラのポジショニング、色の扱いや編集処理など、プロの手によってどのようにまとめられていくか、お勉強のつもりで見ている。
人物の移動と共にカメラが自然に動いていくところなど、やっぱ金と技術のあるプロはすげぇなぁなどと、当たり前のことに感心したりする。
そうはいっても、自分の基準からあまりにも対象外のドラマは避けてしまう。そもそも恋愛系は、若い頃からうけつけない。いわゆる月9なんて一切知らないし、学園モノも不倫モノも無理。
『男女7人夏物語』も『東京ラブストーリー』も『101回目のプロポーズ』も、視ればハマっていたのかもしれないが、その気にならんのだから仕方ない。
子どもが不幸になるストーリーなど、もっての外である。35年ほど前、知り合いの子を連れて観に行った『火垂るの墓』など、冒頭から拷問を受けている気分だった。あんなの見せられるくらいなら、その前になんでも吐いてしまう。
無理やり気持ちを波立たせるような展開も好きじゃない。古今東西見渡しても、理想は小津安二郎監督の作品群だ。
たとえば、夫婦でぬか漬けを菜に茶漬けを啜るシーンがクライマックスという『お茶漬の味』など、ブルックナー以上の宇宙の鳴動を感じてしまう。
画面に向かって顔をぐしゃぐしゃにしながら手を合わせ、「ありがとうございます」と感謝するのは、この監督の映画くらいである。
小津の魔法使いを踏襲するのは無理として、その精神は現在に至るも、幾人もの映像関係者の中に受け継がれているように思う。
『春になったら』はテーマとしてこの上なく重いが、コミカルな演出と軽やかなテンポで、胃にもたられることなく観続けることができる。
波高い荒天の日にも海底はシンと静まっているように、深い所でゆるやかな時の流れを感じさせるのだ。
ここには、小津安二郎に通じる日本独自の美意識を感じる。波穏やかなようで、下に降りていくほど荒れ模様となる(たとえばタルコフスキーのような)ヨーロッパ映画とは、本質が真逆だ。
なにより、映像がいい。木梨憲武の配役には賛否あるようだが、いい味がでているし軽薄にもなっていない。この演出によくマッチしている。
回を重ね今後どうなっていくかはわからないが、今のところ、実にバランスの取れたドラマだと思う。
イラスト hanami AI魔術師の弟子