記憶の匂い
先日、岐阜駅周辺の商店街を歩いて回った時、「清潔な廃墟」のイメージを抱いた。
数10の店が軒を連ねるアーケードに、シャッターの開いた店舗が皆無の通りも少なくない。建造物自体は、長年の風雪に耐えながらそれなりにくたびれているものの、歩道に我が物顔の雑草が幅を利かせたり、吸い殻や空のペットボトルが転がっていたりということもない。野良犬・野良猫は見当たらず、酔客による吐しゃ物や放尿の残滓も皆無だ。
これは地元・清水の駅前商店街にも共通するし、(大都市は別として)たぶん全国的な傾向じゃなかろうか。
よく言えば、日本人の持つ高い衛生観念の表れだろう。別の言い方をすれば、行き過ぎた潔癖症なのかもしれない。
明らかに町は衰退していくのに、奇妙なくらい清潔さが保たれたままなのだ。そこに変なアンバランスというか、収まるべきところに収まっていない居心地の悪さを覚える。
僕の幼少期には、青っ洟を垂らし、一張羅の小汚い服にこすりつけた洟をテカテカさせている子供が、少なからずいた。
生家から通りに出ればドブ板が常に異臭を放ち、町内会の清掃日、排水溝からスコップですくわれる異様に真っ黒な汚泥は、乾燥して風で飛ばされるまでその場に放置されていた。
家の和式便所は汲み取り式で、匂い防止のため開口部に板の蓋がしてあったが、多少の匂いは狭い廊下を隔て室内まで漂ってくる。それが当たり前で、不快と思ったことはない。
銭湯の帰りに立ち寄る鮮魚店では、子供の視線にあう高さで、その日あがった魚が捌かれていくのを見ていた。威勢のいいあんちゃんのだみ声、なまの内臓が掻きだされ分別用のポリ容器に廃棄されていく生臭い血の匂いが忘れられない。
駄菓子屋には駄菓子屋の、本屋には本屋特有の匂いがそれぞれあって、記憶と分かちがたく結びついている。
匂いの消えた”清潔な”日本から、日常のダイナミズムや生活が消えた。場所を移動すると変わっていた匂いがないから、メリハリも感じない。
貧困率は年々高まっているのに、最新の流行を取り入れながら低価格というファストファッションの普及から、見た目で誰がそうであるか判断がつかなくなった。
名古屋の街中を車で走っていたら、高架下にホームレスが寝泊まりしている一角があるのを認めて、へんに安心してしまう。彼らはいなくなったのではなく、見えない場所に移動させられているにすぎないからだ。
魚屋は存在自体が激減し、スーパーの魚は調理しやすいように加工された商品として陳列されている。
魚とはプラスチック容器に載せられたそういう形のものだと、勘違いする世代が生まれてきても不思議はない(現にいるらしい)。
血の匂いの皆無なところで育てば、生き物を殺し食すことで僕たちは生かされているという実感などないまま、大人になっていくのだろう。
記憶から匂いが希薄になっているのだとしたら、それは人間にとって進化では決してなく、むしろ退行現象と呼ぶべきものだ。
明日に続く
イラスト hanami🛸|ω・)و