弥勒の響き
かつて日本人ほどテレビをよく視ていた国民はいない。今でもおそらく70代以上の高齢者は、テレビと共にある人生じゃなかろうか。
1980年代に入るとビデオデッキが普及していき、VHS対ベータマックスの、いわゆる「ビデオ戦争」が勃発する。
ベータマックスは「高画質・高機能」を前面に押し出したデッキで、録画時間は1時間と短い代わりに高画質であり、様々な機能を搭載していた。
一方のVHSは「民生用」という特徴をフルに出す戦略で、画質や機能は必要最小限に抑え、使いやすさとバランスを意識した開発を行う。録画時間も2時間と、ベータマックスの倍の時間が用意された。
VHSはこの戦術が功を奏して徐々にシェアを広げ、1988年にはベータを事実上の市場撤退に追い込む。
当時20代の僕は、自分の部屋にテレビを持っていなかった。
夕飯にミーティングを兼ね店の仲間と食卓を囲み、そこで録画された特集番組や海外の音楽ビデオなどを観ていた。
「音」にこだわる我々メンバーのデッキは当然ベータで、実際に画質は素晴らしい。のちに知り合いの遺品としてVHSをもらい受け、やはり他人から譲り受けたテレビに繋いで自室で見るようになるが、ベータとの差は歴然としていた。
ビデオテープがまだ高価な時代で、映画などは3倍モードで録った。
いま残っていても、とても見る気はしないだろう。良貨が悪貨を駆逐した典型のように思ったものだ。
夜はジャズ喫茶をやっていたし、ジャズに関連するビデオなら(本厚木にあった)馴染みのディスクユニオンやTAHARAで購入する。もちろん限られた軍資金のなか、めぼしい輸入レコードがあれば常にそちらを優先したが。
長い間、聴覚だけのお付き合いだったミュージシャンが動いているのを見るのは、新鮮な気分だ。
まんまやんけの(チャールズ)ミンガス。
どうしてその指の角度からあのコッキーン!な音がでるの?のバド(パウエル)。
うわ~、動いてる!の(チャーリー)パーカーの短いプレイ。
お主もダルよのうのチェット(ベイカー)など、みんなであーだこーだ言いながらの鑑賞は楽しかった。
音楽を僕以上に「わかる」仲間と毎日のように共有し合えたことは、何事にも代えがたい経験だ。
中でも、ビリー・ホリデイが豪華すぎるバックと共に歌った『Fine And Mellow』はたまらない。歌はもちろん、ビリーがソリストに向ける優しい視線に、メローどころかメロメロになってしまう。
当時の輸入ビデオに詳細なクレジットはないから、映像を見ながら「お、ベン・ウェブスターだ」とか「これはロイ・エルドリッジだよね」などと確認し合う。
トロンボーンのソロが難所で、ヴィック・ディッケンソンを言い当てた人間はいなかったはずだ。今のワシなら、すぐ分かる自信があるぞ。
マル・ウォルドロンやミルト・ヒントンなんて、存在すら確認できない扱いを受けている。
「これだけのメンツに、ジェリー・マリガンは気の毒だよな」などと、好き勝手な感想を述べあっていた。
まさに神々の饗宴にあって、ただ一人異彩を放っているのがレスター・ヤングの短いソロだ。
落ち着いたクールな音色で演奏し、洗練されたハーモニーを奏でる内向的なスタイルのこの奏者は、若き日に南部アメリカのジム・クロウ法(アフリカ系アメリカ人の人種隔離法)に抵抗する、誇り高きテナーマンだった。
1933年にカンザスシティに定住し、カウント・ベイシー楽団で名を上げる。当時のテナーサックス奏者の主流で、ここでも共演しているコールマン・ホーキンスの力強いアプローチとは対照的な、落ち着いたスタイルが特徴だった。
1944年9月、アメリカ陸軍に入隊したレスターは多くの白人ミュージシャンと扱いが異なり、正規軍に配属され、サックスを演奏することを許されなかった。上司の度重なるパワハラから精神的に不安定となったレスターは、所持品の中にマリファナとアルコールが見つかり、軍法会議にかけられる。
有罪判決を受け、収容所で1年間辛い日々を送り、 1945年後半に不名誉除隊となった頃には、人としての尊厳を奪われ廃人に近い状態となった。1955年11月には、神経衰弱のため入院している。
1956年1月、復帰したレスターは若い頃にはなかった豊かな感情表現が備わっていた。そして晩年(享年わずか49歳!)に差し掛かったその時期、この映像に出演する。
最初のベン・ウェブスターのソロをそのまま引き継ぎ(2:00)吹き始めるその佇まいは、人生の重みをおろし、一切の居雑物を排し存在が透明になっていくかのようだ。
音に重力から解放されたかの如き軽みがあり、弥勒菩薩の笑みのような慈愛を感じる。このときレスターの半分は、すでにあちらの世界に向かっていたのかもしれない。
今ならYouTubeで、レスターの動くプレイが幾つか鑑賞できる。そのどれもが素晴らしい演奏だが、この時の映像は別格だ。
「ビデオ戦争」に敗れ市場から消えてしまったベータ方式。このとき仲間と共有した時間の記憶は、生涯消えることがない。
Ben Webster: Tenor sax
Lester Young: Tenor sax
Gerry Mulligan: Baritone sax
Coleman Hawkins: Tenor sax
Victor Dickenson: trombone
Roy Eldridge: trumpet
Doc Cheatman: trumpet
Mal Waldron: piano
Danny Barker: guitar
Milt Hinton: bass
Osie Johnson: drums
イラスト Atelier hanami@はなのす