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湧いてこない感情
I氏の一件をきっかけに、たとえそれが業務上に限られた話であっても、互いに意識や情報を共有することの難しさを、改めて認識させられた。
いくら親身になろうと、いくらかみ砕いて説明を繰り返そうと、特定の人に僕の意図が伝わらないことは、それまでだって何度もある。
そんな時、大概の人ならそこまでせずとも理解するのだから、この人には何を言っても時間の無駄であると、さじを投げていたはずだ。もっと根本的な問題がありはしないかなどとは、考えたこともなかった。
理解度とか個々の性格というだけでなく、先天的か後天的かの違いはあろうと、自身を日常の生活に合わせることが、困難な人がいたのだ。加えて厄介なのは、自分でもその症状に気づいていないケースがあるということだ。
とは言っても、僕は心理カウンセラーでも「クスリ28錠焼酎割り」氏のような当事者でもないから、敏感に相手の状態を察知するのは困難だ。
そんな時、良くも悪くも「レッテル」を張ってもらった方が、対応は容易になる。日常生活はともかく仕事に限った話なら、ご当人もその前提があった方が生きやすいはずだ。
僕たちは言葉の生き物だから、定義されていないものに対しては対処の仕方がわからない。個人で「こいつは○○だ」と否定的な意味で用いるのは悪いレッテル貼りかもしれないが、専門性ある他者から「あなたはADHDです」と診断されれば、相手を良く解釈する方便にもなり得る。
その人の人生を丸ごと引き受ける覚悟でもない限り、定義された「レッテル」から相手との距離感をはかる事があっても、いいんじゃないかと思う。
実際のところ、こうして毎日キーボードをたたいている僕が他者から見て、どう映っているのか自分ではわからない。自分自身の裡にある種の偏った傾向があるのは自覚しているが、それが他者との交わりにおいてプラスに機能しているのか、マイナスな面が多くなっているのかもわからない。
もっと言うと、気にもしていない。
「自分のことは自分が一番知っている」とは、心の中の一定の階層までなら当てはまるかもしれないが、深度が上るほど、中心核に近づくほど、理解不能になっていくんじゃなかろうか。
そのように、自分も他人も本当のところは分からないんだと開き直ることで、内面にかかる負荷はだいぶ軽減されるような気がする。
「誰もわかってくれない」と苦しむより、「わかるけないじゃん」と最初から割り切った方がラクである。
などととりとめもない事を考えたのは一昨日、20代半ばの男性と2時間以上話をしていて、かつてのI氏を思い起こしたからだ。
仮にその男性を、Fクンとしておく。とうに成人していても、「さん」や「氏」より「クン」づけの方が相応しい印象だ。一言で言うと、齢相応に「育っていない」のだ。
Fクンとは今回が、三度目の「面談」になる。以前にも触れた引きこもりクン達をサポートするNPO法人に知り合いがいて、「伴走型支援」というのに参加してほしいと誘われたためだ。
「伴走型支援」とは、引きこもりクンと一緒に計画をつくり、定期的な面談や各地区で開催するフォローアップミーティング・就労体験・仕事探しなど、半年に期限を設定したゴールに向かって、対象者と一緒に「走って」いくことを指す。
僕の場合、活動の全てに共感して参加しているわけでなく、基本的にはFクンと担当者、もう一人のボランティアの方の4人で、定期的に会って話をする程度だ。頼まれたから嫌々というわけじゃないが、積極的にFクンに就職してもらおうと考えているわけでもない。
担当する彼女からすれば、Fクンを就労にまで導くのが「仕事」であり、厚生労働省にその成果を報告すればそれだけ国の助成が期待できるし、組織も維持していける。
ボランティアのように善意だけでは済まない、シビアな現実があるのだ。
それは理解したうえで、どこかの企業に引きこもりクンを就職させるという、極端な話どこでもいいから会社に突っ込むことを最終ゴールに設定すると、人によって歪が生じやしないかと懸念する。
当人の適性よりも、実績を上げる方を優先せざるを得ないからだ。
だからといって、こちらのNPO法人を否定する気は全くない。むしろ職員自体も多分に献身的で、カネよりもハートで動く純粋な心の人たちであることは充分伝わる。
いつもマルシェの手伝いに来てくれるAクンは、こちらの就労支援を経て就職し、立派に働けるようになった好青年だ。お年寄りや具合の悪くなった出店者を見かけると、頼まれなくとも荷の上げ下ろしを手伝う神経の細やかさを備えている。自分の経験を活かせればと、後続の人への応援も欠かさない。この支援センターがなければ、彼の自立も実現しなかったはずだ。
むしろ人の内面に深くかかわる事業を、国民の健康なんてまるで考えてないんじゃないの?みたいな厚労省がその活動を評価するところに、大いなる矛盾が生まれているだけかもしれない。
話を戻せばFクンには、最初に会った時からある種の違和感があった。事前に先入観を抱かせない配慮からか、Fクンが今どういう生活を送っているかなど細かい情報は与えられていない。話をしていくうちに、何を投げかけても返ってくる反応があまりにも薄く、そこに”普通”でないものを感じた。
でもその正体が何であるのかわからないまま、初回の面談は終了する。
(次回に続く)
Atelier hanami@はなのす