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月明かりの影

人はペルソナ(仮面、表向きの顔)をつけすぎることで、外側にばかり意識が向くことになる。
自我は外的な自分の位置づけしかできなくなり、自身の内面とのつながりが希薄になっていく。
あまりにペルソナと自我が一致しすぎると、心の内面とのつながりが失われてしまい、「あれ?私って誰」と、自分を見失う可能性があるのだ。

ペルソナと「素顔」があまりに密着し同一化すると、心理的な硬さやもろさとなって病理の危険性が生まれる。
「私はこういう者である」と理解しているつもりでも、実際の心と合致しているかは別の話だからだ。
ところがペルソナは、「そうあるべき(願望)」と「そうである(現実)」を、本人も気づかないまま一致させてしまう場合がある。

健康的に生きている人にとって、ペルソナについてわざわざ考える必要はない。ペルソナは無意識につけているものなので普段は自覚されず、密着しすぎていることにも気づきにくい。
ところが、極端にペルソナと自我が同一化した場合、突如としてそれまで隠れていた本来の感情が噴出ふんしゅつする、ということがあり得る。
ユングは表向きの顔・ペルソナの裏側には、シャドーと呼ばれる「元型」があると説いた。

元型とは、人類が共通して奥深くに持っている心の深層構造、普遍的なパターン。つまり、「人間に共通する心のパターン」のことを指す。

ユングによればシャドーとは、「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」である。
自分ではないと否定したくなるもの、なりたくないものが、誰にとってもあるはずだ。

人間には、何となくであっても「こんな人間でありたい」「こんな人として生きたい」という理想像がある。
仮に「理想なんてない、そんなのどうでもいい」という人の場合であっても、「どうでもいい」を理想にしているとは言える。
そして「理想像が自分の中にある」状態は、そのまま理想以外の何かを否定していることになるのだ。

たとえば「他人には優しくあるべき」を理想として生きている人がいたとする。するとその反対の「他人には厳しくあるべき」を、知らず知らずのうちに否定している可能性があるというわけだ。
「他人には優しくあるべき」と考える人にとって、「他人に厳しくあるべき自分」が無意識のエリアに捨てられ、シャドーとなりうるのだ。

シャドーとは、自分が無視したり否定したりした感情や欲望などの総称だ。シャドーを認め受け入れることは心のバランスを保ち、自分の成長やいやしへとつながる。
逆にシャドーを抑圧し無視し続けると、自分の本当の自己を見失ってしまう可能性がある。

生きていれば出会うなんとなく嫌いな人、ある点だけに限ってむやみに腹が立つ存在などは、僕たちののシャドーである可能性が高い。
もし自分が今よりも楽になりたい、より柔軟に成長したいと思った時には、「それはシャドーかもしれない、自分の中にもあるものかもしれない」と意識してみる。
相手に対する不快を「自分の中の一部でもある」と思えた時、不快だと思っていた相手が不思議と全く気にならなくなってしまう。

あたかも聖人君主のように見なされ、大きな影響力を持つ「偉大な」人物の場合、そのシャドーとして、自分の子供が代弁者になるケースが、実は多いとされている。
かつて大女優とうたわれ、世の母親の規範とあがめられ子育て本まで出した女性の次男が、覚せい剤取締法違反の罪で5度逮捕されている。
甘やかされ続けたボンボンとまでそしられた彼の存在こそ、母親のシャドーだったかもしれない。


影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が認容しがたいとしている心的内容あり、それは文字どおり、そのひとの暗い影の部分をなしている。

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)p101

「優しい私」に対しての「厳しい私」、周囲の人から見た「優しい人」と「厳しい人」。
「優しい人」にとって「厳しい人」がシャドーとなり、それが突然とつぜん顔を出すと、周囲の人を驚かすことがある。
「私」(自我)と反対の要素が「影」(シャドー)になるため、「反面」ともいえる。「優しさ」という「ひとつの面」に対して、もうひとつの片方の面であるシャドーはその人の「半面」ともいえる。

影とは何か EARTHSHIP CONSULTING

影ということで、私は人格の「否定的」側面を意味している。それは十分に開発されてこなかった個人的無意識の内容・機能を含めて、私たちが表出したがらない不快な性質をもったもののの集合である。

『エッセンシャル・ユング』(創元社)p101

ユングは、”人格の「否定的」側面”がシャドーであると言っている。ここでは「否定」がキーワードだ。自分が否定しているものが、シャドーとなっていくのである。
さらに彼は、「十分に開発されてこなかった」とも述べている。
自分が否定した性格の要素なのだから、表現したり使ったりしてこなかったとしても当然だろう。それゆえ結果的にシャドーが、未開発のままになっていることを指摘している。

たとえば、Aさんが自分は性格的に「暗い」と考え、「暗い人」として生きてきたのなら、「明るい人」としては「生きてこなかった」ことになる。するとAさんにとっての「明るい人」としての要素は、「開発されていない」ことになる。
ユングがシャドーを「不快な性質をもったもの」とするのは、自分に相反する要素は多くのケースで「嫌い」だからであり、「気に入らない」ものであり、「不快なもの」になるうるからだ。

シャドーは、自分の「生きられなかった反面・かつ半面」であり、「意識(自我)の否定した要素」なので、それが夢に登場すると、不快な夢になることが多い。
シャドーの存在を知り、受け入れていくことで人の心は成長していく。そう考えると不快とはいえ、「意味のある不快さ」がシャドーにはあるのだ。

不快なシャドーは、僕たち人間を苦しめようとしているのではない。
「もっと成長せよ」と無意識からメッセージを送る、「こころの番人」としての役目なのだと認識すればいい。

人間というのは、とてもびっくりするようなことでも、その意味が理解できれば、それを生きることができるのである。

『エッセンシャル・ユング』(創元社)p101


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