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亡き少女のための

小学4年生から新設校に引っ越し、それからの3年間、僕らは常に最上級生の立場になった。進学を控える5・6年生が、そのまま既存校に残るためだ。
1970年代に入り、田畑が町へと変わっていくスピード、そこに流入する人口量に追いつけないための措置だった。

上級生(先輩)がいない学校生活を経験した人など、滅多にいないはずだ。お兄さんお姉さんのいないことがどう少年期に影響したか、当事者だとかえってわからないままである。

同じクラスに、藤原土筆つくしという女の子がいた。20数名いる女子の中でとりわけ目立たない、地味な印象の子だ。
他の女子の名前などほとんど覚えていないのに、このだけはすぐに思い出すことができる。土筆つくしという名前、それ自体が珍しいからだ。音読みでも訓読みでもない当て字の名前など、50年も昔、他に存在していなかった。

顔立ちがまた、地味である。ショートヘアのやせた小顔に、切れ長の細い目。背は高くも低くもなく、声質は女子にしては低い方だった。
会話を交わした記憶も、ほとんどない。好き嫌いの感情自体がそもそもなくて、中学に移ってからはただの一度も思い出すことがなかった。

義務教育もそろそろ終わろうというある日、母が声をひそめ聞いてくる。
「藤原土筆つくしちゃんって、覚えてる?」
「あのね、亡くなったのよ」
突然言われても、反応が追いついていかない。物心つく前に病死した叔父の遺影は家にあっても、リアルな知人の死など経験したことがなかった。
「一家心中だったんだって」
生来おしゃべりな母が、それ以上は語らず口をつぐんでしまった。だから彼女がどういう理由でどういう亡くなり方をしたか、不明なままである。

その日から、心のどこかに穴が空いてしまった感覚が抜けなくなった。本人の意思とは無関係なはずの、元クラスメイトの死。人の世の理不尽さに、初めて直面した思いがあったのかもしれない。
どうしていいかわからず、ただ彼女の存在をおぼろげに意識しながら、日々の時間が流れていった。

その日はシャポー船橋で、レコードをあさっていた。店内を隅々まで「点検」して回る。手持ちの予算はたいがい2~3,000円で、レギュラー価格のLP1枚買うのがやっとである。

クラシックの廉価盤コーナーに、アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団『ラヴェル管弦楽曲全集 Vol.4』があった。おびに『ける王女のためのパヴァーヌ』という曲名を見つける。
何故か、聴いてみたくなった。すでにこの世にいない藤原土筆つくしとこのクレジットが、自分の中で重なったように思えたのだ。

曲は遠きところから響くホルンと、弦楽器のピッチカートに始まる。途端に、ひたすらな郷愁と静かな哀しみをたたえた異界へと連れ去られる。
やがてオーボエによる新たなエピソードが出現し、弦は胸にあふれる悲しみを追認していく。
フルート、ハープと、誰もがこの世を去った一人の少女に向けて、哀悼あいとう鎮魂ちんこんのパヴァーヌ(かつてヨーロッパに普及した宮廷きゅうてい舞踏ぶとう)を奏する。
地上のあらゆるくびきから自由になった少女の舞いは、疲れを知らず尽きることなく、やがて見上げる虚空の彼方かなたへと消えていく。

余韻はいつまでも心の裡にこだまし、了解も覚悟もなくあちらの世界に旅立った少女の魂を浄化してくれるようだ。そう感じるのはむしろ、僕自身が救われたからかもしれない。

世評に高く、専門家からはあまり受け入れなかったと言われる『逝ける王女のためのパヴァーヌ』。
作曲者自身も批判的だったそうだが、晩年、重度の失語症に陥った状態でこの曲を聴いた際、「美しい曲だね。これは誰の曲だい?」と尋ねた逸話は有名だ。

若い頃あまりにも聴き過ぎた音楽の大半は、懐かしむことはあっても滅多に聴き直そうと思わない。チャイコフスキーの後期交響曲など、よほどのことがない限り耳にしなくなった。
ラヴェルのこの曲、クリュイタンス&パリ音楽院管の演奏だけは、いつ聴いても変わらない。
生前、なんの接点もなかったはずの藤原土筆つくしの気配とともに、僕が生ある限りは反芻はんすうし、そのたび心を浄化してくれることだろう。

イラスト hanami🛸|ω・)و


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