激しい雨が降る
昨日の午後、今にも泣き出しそうな空を眺め、玄関から数歩で到着する車に向かおうと扉を開けたら、ポツポツ降り始めたところだった。空はゴロゴロと、不吉なうなり声をあげている。
家を出発し数百メートル進むころには、本格的な雷雨に変わっていた。ワイパーを強にしてもフロントガラスの視界はぼやけ、慎重に車を走らせる。
自宅からわずか数キロの郵便局に着いてドアを開けようとすれば、凄まじい雨の勢いにひるんでしまう。意を決し、助手席に置いた傘を急いで開いても、容赦ない雨粒が車内にまで侵入してきた。
局長に来月開催するマルシェのチラシをおいてもらう依頼をし、車に乗り込むころには、少し雨脚が和らいでいる。せっかく出てきたんだし、他の用も済ませるかと隣町まで足を延ばす気になった。
10分ほど車を走らせ、過去に集中豪雨で何度も被害に遭っている通りに差し掛かる頃、雨は再び勢いを増し、すでに道路が水に浸かりだしている。
どうしようかな、引き返した方がいいか。でも、せっかくここまで来たんだし。
迷う間も車は進み続ける。行くだけ行ってやることを早目に片づけ、帰るとするか。
陽がささない分気温は明らかに下がっているのに、一歩車外に出れば真夏の熱波を浴びた時に負けないほどの、不快感がある。
そうとう湿度が高いんだろう、全身がべとつき気持ち悪い。
秋の到来を前に、もう一つおかしな季節が狭間に生まれてしまったかのような、鬱陶しさを感じさせる。
帰路につく頃、走るタイヤの下半分が水没し、烈しい水しぶきを上げる箇所が、そこここに現れ始める。
やばいなぁと思いながら、この手の危機感を抱くようになったのはつい最近のことであると、今さらながら気づくのだ。
「ゲリラ豪雨」という言葉なら、以前からあった。
2008年の流行語大賞に選ばれ、とくに最近見聞きするようになった表現だが、昭和44年の新聞紙上が初出といわれるマスコミ用語だ。
気象庁では「局地的大雨」、(その地域の災害発生につながるような)滅多に観測しない雨量を知らせる時には、「記録的短時間大雨情報」というらしい。
「ゲリラ」の語源は19世紀初頭、スペイン軍がナポレオン軍に対抗するために使用した戦法に由来している。
敵の後方や敵中から奇襲を仕掛け、相手を混乱させる戦法だ。小部隊による遊撃隊を意味する。以降は正規でない、小規模の部隊を指すようになった。
そこに最近、「線状降水帯」という新たなワードが加わる。
次々と発生する積乱雲が列をなし、同じ場所を通過・停滞することで、線状に伸びた地域に大雨を降らせるものだ。
2014年、広島県での大雨から注目されるようになり、気象庁でも線状降水帯についての予報を2021年から発表している。
かつての局地戦(ゲリラ)から戦場(せんじょう)へと、雨の烈しさもレベルアップしたわけだ。などと、つまらぬギャグを言っている場合じゃない。
前をのろのろ走っていたトラックが、停車寸前までスピードを落とし始めた。そこからそろそろ進み始めると、まるでスロープからプールに徐々に浸かっていくように、車体が水たまりの中へと沈んでいく。
さすがにビビッて手前で停車し、成り行きを見守ることにした。ニトロこそ積んでいないが『恐怖の報酬』(そういうフランス映画の古典がある)みたいなスリルは、現実の世界で味わいたくないもんだ。
幸い10メートル足らずでトラックは浮上し、これならなんとか行けるだろうと後に続く。それでもボディの辺りまで水に浸かりながらの走行は、ひやひやもんである。こわい思いをしながら難所を通過し、どうにか帰宅できたのであった。
あとから知ったが、この日清水区で降った雨量は12時間で300mmを超え、平年の8月・1ヶ月分を大きく上回っていたそうだ。
東名高速の通行止めやJR東海の運転見合わせなど、交通網にも多大な影響があったという。
日本では古来、自然=神さまの行為なので、自然災害のことを天災と呼んでいる。
天災が起きるのは神さまの判断であるため、我々として避ける手立てはない。しかし神さまとしても、むやみやたらと人々をいじめたいはずはなく、きっと理由があるはずなのだ。
全ては化石燃料(石炭、石油、ガスなど)の燃焼による人間の活動が諸悪の根源と決めつけ、本来大切にすべき先人の知恵や祷りを迷信と一蹴する驕りにこそ、神さまはご立腹かもしれない。
戦後日本の悪しき総決算とも思われる現首相が交代するこの時こそ、次に進む道こそは、日本の神さまと共にあるべきじゃなかろうか。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす