所長もいろいろ
(前回の続き)
初代所長の件で懲りて、実績のない上っ面だけの人間は避けたいと思っていたところ、「他所で同じ規模の旅館を仕切っていた人間を見つけたよ」と連絡があった。
電話してきたのは30代後半、業務係長に任命されたばかりの本社所属の男性である。
彼はこの後、箱根に絡む人間関係から数奇な運命をたどる。
彼なしには、働き手が圧倒的に不足したこの旅館の立ち上げ危機を乗り越えることは、決して出来なかった。僕より3歳年上だが、数少ない「戦友」として今も忘れることはない。
最後は会社としても庇い切れない失態を重ね懲戒免職となり、その後は職を転々とした。
長年のアルコール過剰摂取から病院に担ぎ込まれ、肝不全・腎不全で世を去ってしまう壮絶な最期を迎えるのだが、触れるのはまた別の機会にしたい。
何しろこの時期に関わった人々の人間模様は百花繚乱の感があり、一冊の本に出来るボリュームが十分にある。
そんなもの書いても、誰も読んではくれんだろうが。
採用後にお会いした2代目所長のY氏は、50代後半。
勤めているパートさんからの紹介で、かつて上司だったというから、前歴にウソ偽りはない。
引き継いだ事務所の机にご自身のメモをいっぱいに拡げ、従業員のデータや業務の配置など、所長として検討を進めている姿が見て取れる。頼もしいじゃないか。
これで現場も落ち着く方向に向かってくれるかと、少し安堵した。
同時に、後付けの様だが嫌な予感がしたのも否めない。
笑顔を絶やさぬY所長なのだが、メガネの奥の瞳が笑っていない。大変失礼な物言いをすれば、その瞳に映るものは喜怒哀楽というより、澱んだ内面の顕れといった印象を受けるのだ。
語尾につく「オホホホ」も、なぜか神経に障って仕方ない。よく昔のテレビドラマでお公家さんが発する、京の都の嫌味さ混じる笑いを髣髴とさせるからである。
「こちらは私に任せて、課長(当時の僕の肩書)は安心して本社にお戻りください。オホホホ」といった具合だ。
さっそくパートの女性たちがこの「オホホホ」を真似しだし、すぐにY所長のキャラクター付けは決定した。
自慢じゃないが(自慢してもいいが)、当時の僕の月残業は200時間を軽く超過している。今なら最悪の労災レベルだが、こっちにそんな認識はない。人がいないし、受け持つ現場も20近くはあったから、いつまでも旅館にべったりというわけにいかない。
月末が近づき翌月以降のスケジュール調整もしなければならず、業務係長とY所長に託し、久しぶりに清水の本社に戻ることになった。
少しすると業務係長から、せっかく安定してきたはずの従業員が辞め始めているという報告が、連日上がるようになった。
気持ち悪いのは、誰に訊いても明確な理由を言わないらしい。これでは対処のしようがない。
Y所長の動きも、不可解になってきた。旅館と僕たちの事務所は道一つ隔てた向かい側にあり、さらに宿自体が本館と新館に分かれている。
スマホはおろか、ポケベルが普及するのももう少し後だから、当人を見つけるには歩いて探すしかない。しかし連絡を取りたくてもなかなか見つからず、事務所に置いてもらったメモを見てご本人が電話をよこすのは、いつも夕方近かった。
「なにぶん、あちこちから呼び出されまして。落ち着くまでは大変ですよ、オホホホ」
そう言われてしまえば、返す言葉もない。
日中は現場に貼り付けになっている業務係長にとっても、Y所長の動きは把握しきれないままだった。
ついにサブの役割を担う人物まで辞めると言い出したので、ご当人と面談の機会を持った。
ところが彼も、理由について明言しない。ただ「Y所長はこのまま置いとかない方がいいよ」とだけ、口にした。
理由もわからないままでは、Y所長に問いただすことも難しい。するとそれから数日と間を置かず、旅館側から呼び出された。
業務中であるはずのY所長を、先方の社員が小田原駅付近で見かけたというのである。一体どういうことか、問われたのだ。
ご本人に質すと、その時点では事実を否定した。
「他人の空似でしょう。私はずっとここにおりましたよ、オホホホ」
ところがその後、複数の目撃情報が寄せられる。異なる日と場所でY所長を見かけたとする証言が、中からも外からも出るようになった。
再び問い質したとき「オホホホ」は消えていて、「そこまで信用して頂けないなら私辞めます」と開き直り、その場で辞表を書いて提出したのであった。
以下は、僕の邪推である。全ては偶然の一致かもしれない。
Y氏が目撃されたいずれの場所も、我々の前に旅館を管理していた会社から至近距離だった。
そしてY氏と紹介者の前職は、その会社の所属だった。
彼が手書きでデータ化していた従業員情報を仕事に使っていたのか、ひょっとして別の用途に使っていたかも、今となっては定かでない。
そしてY氏が旅館を去って以降、幸いなことに退職者もピタリと止まった。
Y氏が仕事を抜け出し、以前の会社の周辺をほっつき歩いていた理由はなんであったか。
僕の中の「陰謀論」は、自問することを今も止めずにいる。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす