酔って候
父親が洋酒党で、酒にはべら棒に強かった。
ビジネスで来日したロシア人とサシでウォッカを飲みかわし、翌朝、客人はつぶれているのに平気な顔で出社したという逸話を、父の同僚の方から聞いている。誇張もあるかもしれないが、いくら飲んでもまったく乱れない人だったのは確かだ。
ちなみに僕は下戸の母親の体質を継いだらしく、ビール一杯で顔が真っ赤になる。それでも酒は嫌いじゃなく、現役時代は客の接待や同業者とのつきあいもあって、結構な量を飲んでいた。
親父の教育の賜物か、我を忘れて酔っぱらった経験がない。外資系に勤めていた父にとっては、好きな酒もビジネスの延長で、「『酔っ払った』が許されるのは、日本人だけだ」と事あるごと口にしていた。
その影響かどうかは知らないが、宴席で「酔っぱらった」ふりはしても、飲むほどに意識は醒めていく。周囲が酔うほどに、自分の居場所がないような感覚に陥り、早くひとりになりたいといつも肚で思っていた。
そういう機会が皆無になった今、毎日がとても気楽である。
狭い借家住まいだった幼少期、父が用意した水割りをちょっと目を離したすきに、4歳の僕が誤って飲んでしまったらしい。
「パパ、お水っておいしいのね」とニコニコ近づき、次の瞬間いきなりひっくり返ったもんだから大騒ぎになったらしい。当人はまるで記憶にないが、両親それぞれ別の機会に聞いているから、事実だったんだろう。
海外出張でほとんど家にいなかった父は、帰国するつどスコッチウイスキーを2本、手土産にしていた。当時は1ドル360円の固定相場で、洋酒など庶民にとって高嶺の花だった時代だ。
こっそり酒を飲むようになったきっかけは、祖母の作る梅酒からだった。
酒に浸かった梅をかじっていると、なんともいい気持になってくる。そこで今度は梅酒そのものを口にしたら、すっかり酩酊状態になってしまった。世の中にはこんなに気持ちいいもんがあるんだ。だけどどうやら小学生は、酒を飲んではいけないらしい。
そこからちびちょび、盗み飲みを繰り返すようになる。
慣れと言うのは恐ろしいもので、その内ちびちょびだったものがごくごくへと変わり、そうなるとこっそり飲むにも限界が生じる。自分は作るばかりで一滴も飲まない祖母が、梅酒が減っていると騒ぐようになった。
仕方がないので、いつも父親が買ってくるウイスキーでも飲むか、となる。ほとんど家にはいないし、酒棚には同じ銘柄の箱が幾つも並んでいる。1本くらい開けたって、分かりゃしないだろう。
箱の数が一番多かったChivas Regal 12 の箱からボトルを取り出し、キャップをひらく。濃厚で強烈な薫りが、近づけた鼻腔に拡がる。コレ強すぎやしないかと、子供心にも思った。
意を決し、微量をグラスに注いで、薄めずガッと飲み干す。たぶんテレビで視た西部劇の酒場のシーンで、ガンマンがストレートの酒をショットグラスで飲んでいるのを、真似したかったんだと思う。
まさしく「五臓六腑に沁みわたる」というヤツで、胃の中からカッと火が点き、やがて全身に燃え広がっていくような感覚である。
世の中なんかつまんねぇなと、世の中の何たるか知りもせず白けた気分のままいた小学生は、日常の中に生きていく甲斐を見つけたのであった。
こうなると、うまい不味いの味の問題じゃない。たちまち強烈な刺激の虜となり、学校から帰っては気付けの一杯が欠かせなくなった。
慣れと言うのは恐ろしいもので、その内ちびちょびだったものがごくごくへと変わり、そうなるとこっそり飲むにも限界が生じる。って、そればっかりやんけ。
やがて帰宅した父親が、空になった数箱のウイスキーに気づいた。「お前、ちょっと来い」
どやされるかと思いきや「飲むのはいいんだが、高いヤツは勘弁してくれ。どうせ味なんかわからんだろ?安いの用意しとくから、今度からそっちにしろよ」
ザ・昭和の対応である。
幸か不幸かアルコールに弱い体質からアル中にならず、酒の席での失敗談もなく過ごしてきた。
酒にめっぽう強かった父は、肝硬変から末期の肝がんへと移行し、58歳で世を去っている。並の人間の一生分を上回る量を飲んだのだから、その意味では本望だったろう。
家ではスコッチ、外に出ればウオッカマティーニ一辺倒だった父が、ある日珍しく、日本酒を飲みたいと言いだした。
テレビで柳家小さんの落語を観て、その飲みっぷりの芸の上手さに喉が鳴ったらしい。「あんな芸、見せられちゃなぁ」と、酒屋から一升瓶をとりよせていたっけ。
その時の噺が何だったかまで覚えていないが、いま改めて観ると、小さんはやっぱり巧いねぇ。永谷園の笑わないじいさんってイメージが強かったが、楷書体のようなキッチリした名人芸だ。
久しぶりに、享年58の親父を思い出したついでだ。今夜は62歳になった息子が冷でキュ~と、一杯呑るかね。
小さんと違ってエアドリンクは無理だから、本降りにならないうちに仕入れてきますか。
イラスト Atelier hanami@はなのす
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