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柳瀬の午後に歩いてる
娘たちの車で、岐阜駅周辺の商店街に着いた。午後3時過ぎ、これから街中をぶらつくという。
金華橋通りという少し離れた場所に駐車すると、利用料金が1時間100円・上限500円となっている。僕が住む清水のような田舎でも、なかなか出会えない価格設定だ。
駐車場奥は廃墟となったビルの背面にあたり、コンクリートが剥がれむき出しになった木枠に、歴史の風化を偲ばせる。
修繕というより解体必至の建物だが、これまで手を加えられた気配がなく、もはや所有者不明の可能性もある。
中心街からひとつ離れた路地を歩くと、とたんに色街を思わせる店が軒を連ねている。
ネオンが点るにはまだ時間が早いが、こういう”裏”の雰囲気に接するのは久しぶりだ。闇や薄暗がりの場所が徐々に消えていき、明るさ一辺倒の街の風情というのは、健全なようでありながら、どこか空々しい。
光あるところに闇がある。日本の歓楽街から闇が消えていくなら、その対となる光、活気が失せていくのも致し方ないことかもしれない。
柳ケ瀬商店街を歩く。典型的なシャッター商店街で、開いている店の方が珍しい。
天候を気にせずぶらぶらできる、昭和のアーケード街。我が町・清水銀座のアーケードを前日訪れたばかりだったから、歴史の終焉に立ち会っている感をなおさら強く持つ。悲壮感はなく、ただその瞬間を見届けているという淡々とした感覚だ。
柳ヶ瀬エリア一帯は、明治30年ごろから盛り場としてにぎわった。大正時代になると、博覧会ブームで「内国勧業博覧会」などが柳ヶ瀬で開催され、商業の街として大きく発展。呉服店が多数開業してトレンドの地となり、界隈をぶらつく「柳ぶら」という言葉も生まれたという。
戦後、空襲によって焼け野原になるものの、バラック小屋での劇場興行がいち早く再開したことで、娯楽の街として再び繁栄。1960(昭和35)年には県下初の全天候型アーケードが完成し、1966(昭和41)年には美川憲一が歌う歌謡曲「柳ヶ瀬ブルース」が全国的にヒットした。「チャームタマコシ(後のファッションビル『岐阜センサ』)や「岐阜タマコシ(後のファッションビル『岐阜センサPartⅡ』)」、「岐阜近鉄百貨店」「岐阜高島屋(2024年7月末で閉店の予定)」などが建ち、このころには一大繁華街として全国にその名を轟かせていた。
時代は平成に入り、人々の移動手段が公共交通から自動車へ移ると、郊外型モールに客層が流れ、大型商業施設が相次いで撤退。「岐阜高島屋」以外のビルは次々に閉店した。それらの跡地は長年放置され、“シャッター商店街”といわれるようになっていった。
1980年初め、ロンドンに1週間滞在したことがある。北欧研修(実質は遊び)が終わり、帰国まで数か国を周った時だ。
絵葉書のようなミュンヘンからヴィクトリア駅に降り立つと、とたんに鳩の死骸が横たわっている。空気が乾燥しているためか異臭はそこまで強くないが、ボロボロの襤褸をまとったヒゲもじゃのオヤジが、誰かれ構わず手のひらをかざし「カネをくれ」とまとわりつく。
あぁ、ここは終わった国なんだと、心底思ったものだ。
出掛ける時間になっちゃった。また明日。
イラスト hanami🛸|ω・)و