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ひとりでは生きていけない

東映時代劇YouTubeで、『ぶらり信兵衛 -道場破り-』が公開されている。毎週木曜日に1話ごと更新で、今回は31話になる。全50話だから、5分の3まで来てしまった。もうこの段階で、名残なごり惜しい気分になっている。
フジテレビ系列で公開されたのが1973年10月からの1年間、もう50年以上前の人情時代劇だ。

十六店じゅうろくだなという貧乏長屋に、松村信兵衛まつむらしんべえを名乗る浪人がいる。
素性すじょうは知れず、なんで口をしのいでいるかもわからない。どうやら侍社会に愛想を尽かして出奔しゅっぽんしたらしく、仕官する気はさらさら無いようだ。
腰に差しているのは竹光たけみつで、信義に厚く、長屋の連中からは「センセイ」と呼ばれながら、お人好しで少々頼りなく思われている。
信兵衛しんべえさん、実は神道無念流しんとうむねんりゅうの達人である。
長屋の連中がカネに絡んだ困り事に巻き込まれると、彼らには内緒で「取手呉兵衛とってくれべえ」を名乗り、いかさま道場破りで金を工面しては裏から都合をつけていく。

原作は山本周五郎やまもとしゅうごろうの『人情裏長屋』。
ドラマの方は十六店じゅうろくだなを舞台に展開するが、1話1話は山本氏の短編を中心にられていて、ファンなら「あぁ、あの話か」との答え合わせも可能だ。

ある日、同じ長屋に住む子持ち浪人が仕官の道を探るべく、鶴之助つるのすけ(原作では赤ん坊)を信兵衛しんべえたくし、「いずれ迎えに来る」と書置きを残し姿を消してしまう。
憤慨しながらも子供の面倒をみようと決意する第2話で、見ているこっちの涙腺るいせんはすでに決壊状態になる。原作に『人情裏長屋』とあるように、人情と善意にあふれた昭和のドラマである。

では、昭和が義理人情に厚い人ばかりで、今の世は平気で人を裏切る薄情者ばかりかと言えば、そんなこともないだろう。
『ぶらり信兵衛 -道場破り-』に思うのは、良くも悪くもおせっかい焼きが多く、互いが互いを心配し合う土壌がまだ残っていた時代だったという事だ。

もちろんその昭和にあっても、十六店じゅうろくだなの風景などすでに遠いものになっていたはずで、失われゆくものへのノスタルジーが半年で終わるはずのドラマを、1年間まで延長させる人気番組にしたんだろう。

本編もそうだが、オープニングのボニージャックスの歌からして人生の幸福感に満ちている。十六店じゅうろくだなの貧しい住民一人ひとりの暮らしを唄っているだけなのにこの心地よさ、穏やかな感覚になるのは何故なんだろう。

ちなみに作曲は渡辺岳夫わたなべたけお
『ザ・ガードマン』『白い巨塔』『非情のライセンス』『巨人の星』『天才バカボン』『アルプスの少女ハイジ』等々、僕を含む当時の子供たちに与えた影響は計り知れない。

僕が子どもの頃には、お互い様の精神をもった社会風土がまだ残っていた。
小学校から帰れば、隣の空き地にどこからともなく集まってくる友達と、「ろくむし」で遊んだ。
横道にそれるがいまYouTubeで検索すると、僕らがやっていた「ろくむし」とちょっと違う。これが通常ルールだったのだろうか。
僕らのは野球の要素が多分にあり、鬼が投げたゴムボールを手で打って、ヒットしたら鬼が拾ってタッチされる間に「何むし」進めるかというものだった。地域性もあったんだろうか。

「困った時はお互いさま」の精神が健在で、味噌や醤油がきれたときは隣のお宅と借りたり貸したりが、日常の光景だった。まだコンビニもない時代だったから、おいそれと食材が手に入らなかった事情もあったろう。
助け合いの精神が当たり前だったから、「家庭全孤立化」となっている今の社会状況とはそこがちがう。

母親同士の井戸端会議は日常の風景で、「〇〇ちゃんは」などとあることないこと、噂話が飛び交っていた。
今であれば、集合住宅であっても隣に誰が住んでいるのか、分からない状態の所が多いはずだ。
便利な世の中になり、自分の裁量で大概のことはできるようになったが、その代償として困ったとき、周囲に気軽に助けを求められるかつての風情ふぜいは失われてしまった。

昭和に見ていた『ぶらり信兵衛 -道場破り-』は当時の大人たちにとってノスタルジーだったかもしれないが、周回したいま僕たちにとって、日本人が取り戻すべき「人情」があるように思えてならない。

十六店じゅうろくだなはその日の生活にも困る貧乏人の集まりだが、なぜか誰もがいきいきと幸せそうだ。
その幸福感を支えるのが、言葉にせずとも通じる助け合いの思いであり、一方で他人ひとをあてにし過ぎず、自分で生きていくんだという矜持きょうじに支えられたものがあるからに違いない。

ひるがえって、現代いまはどうだろう。
日本の庶民は貧しくなる一方であり、なぜか税金の取り立てばかりが右肩上がりの世の中だ。それなのに、支え合える十六店じゅうろくだななどは存在せず、すべては「自己責任」の四文字に帰結されてしまう。
そこに「希望」はなく、将来への絶望のみが横たわっている。

来年になればおそらく世界は、きしみを上げながら大転換の時代に入っていくだろう。今以上の混乱は、必至ひっしとみられる。
死語となってしまったかに思える「人情」こそが、そのとき日本の庶民を助ける大きな武器となることを、心から願わずにいられない。

イラスト Atelier hanami@はなのす

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