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無関心の未来

数か月前、地元広報紙の編集長になった。前編集長からなかば押し付けられる形で”就任”する。

とは言っても、編集員の時代とやることはさほど変わらない。一番面倒な紙面の構成は、こちらも編集に参加して数か月の女性が全部やってくれるし、取材ネタは僕以外の人たちが考えてくれる。強いて言うなら月1回の編集会議で、進行役になったことくらいか。威張れるほどの技量じゃないが、多少仕切れる能力はあるらしい。やってて苦にならんもんね。

昨夜、7月の定例会が開かれた。議題は今月号の校正と来月号の検討だが、新加入の女性が事前に手際よくまとめてきてくれるものだから、大して時間はかからない。時間の配分として、少しわき道に逸れた話題の方が多くなる。進行役の僕がある意図をもって、そちらに誘導してもいる。

自分なりの結論として、我が地区の行きつく先には終わりが見えている。遅かれ早かれ、遠くない未来に消滅する集落だ。
すでに相当減っている550名の住民のうち、60歳以上が54%を占めている。
働き盛りの30~50歳代が31%。0~20歳代は15%に過ぎず、そのうち10歳代の人たちが地元に残る可能性は、これまでの経緯からしても極めて低い。現に僕の2人の子供も親元を離れ、千葉と愛知に住んでいる。
20年後30年後、この地に暮らし続ける人の数は100名に満たなくなっていくだろう。このままいくと50年後、存続しているとは想定しにくい状況だ。

たまたま来月号で、ここ10年の人口推移をグラフ化し配布する。それを見た住民がどのような反応を示すか、事前に予想がついてしまう。

「ずいぶん減ったねぇ」

だったらどうするかとは、おそらく考えない。
考えたって仕方ない、もっと言えば自分には関係ないとの無関心層が、圧倒的と思われるからだ。
そもそも広報紙に、ちゃんと目を通している人がどれだけいるかも怪しいものである。何かを企画し呼びかけても、まるで返ってこない集落の反応がそれを証明している。

このままじゃいけないと思う少数派は、いつの時代にもいる。
彼らは自分の生まれ育った故郷の衰退がやるせなく、少しでもかつての活気を取り戻そうと躍起になる。地元に貢献出来る事はないか、相手に呼びかけ、自分でも思いついたことを提案してみる。

そんな人たちのアクションに対して、周囲からうんもすんも返ってこない。
否定する者でもいれば議論になるからはるかにマシで、無反応というのが一番キツイ。
圧倒的な他人ごと・無関心の前にいつしかやる気をなくし、口を閉ざし、以降は地域との関わりを絶つ。そういう人が、過去何人も存在したと聞いている。

実際、広報のメンバーの一人がそうなんだとか。
打ち合わせが終わり、この手の将来の話が始まると、先にそそくさと帰ってしまう。集落全員の名前をそらで言えるほど、かつて地域再生に積極的な人だったのに。
「今さら一緒にやろうって声かけても、全然やる気にならないんだよ」
いきさつを知れば、それも無理ないか。

先月、5年ぶりに夏の盆踊りを開催するとの企画をうけた。広報として記事にしてくれというので、取材する気でいる。
6月の最終日に会議があるというので、参加を予定していた。直前になって理由不明のまま、これがキャンセルになる。
7月1日に再度予定された打ち合わせも流れ、なんだか分からず関係者に訊けば、盆踊り自体が中止になる方向だという。

理由は、主催者の方で5年前なら言うことを聞いた体が動かなくなり、音響や照明を外注したいと、自治会に希望を出したそうだ。
これまでは後援費として多少のバックアップはしてきたものの、数万円の援助が必要と聞いて、役員が態度を硬化させたらしい。

「自分が踊らないのに、払う理由がない」「援助したうえ当日も来てくれじゃ、踏んだり蹴ったりだ」「むかしのレパートリーで踊れる奴なんているのか?」
そうした総意から、やりたきゃ有志で勝手にやってくれ、となったそうだ。
いい悪いは別にして、これなんか他人ごと・無関心の典型的な事例だろう。
(明日に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす


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