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ガラスの仮面

ユングがくペルソナ(一面的な自我)とは、外界と調和していくために身につける役割や仮面のことで、外側に向けて見せる自分の顔だ。
ペルソナの語源は、ギリシア・ローマ時代に役者がつけていた仮面、つまり人が世界と向き合う時の顔になる。

ペルソナは人が社会的な立場や役割を果たすために必要なもの、自分の公式な顔とも言われている。
たとえば僕に限っても、これまでいろいろな役割を担ってきた。

家庭で言えばある時期までは両親の息子であり、のちに家庭の夫であったり父親になったりもする。
就職すれば部下として指示を受けたり、上司になって指示をしたり、ときに作業員にもなれば、会社の命運を握る交渉役になったりもした。
今は地域おこしの事務局として、今後に向けた多岐たきにわたる準備を整えようと動いている。

© やさびと心理学

その時々の役割に応じて、自分でも意識しないまま仮面をかぶっていることがあるはずだ。家ではまったく無口な僕が、必要とあらば人前でよどみなく饒舌じょうぜつにしゃべっている自覚は確かにある。
そのどちらがペルソナ(仮面)であるかは不明だが、後天的こうてんてきに身についたというなら後者だろう。
人はこのように外面的な側面と内面的な側面、言い換えれば建前の自分と本音の自分がある。ペルソナというのは、この建前の自分である。

人の心は二十歳はたちになるくらいまでであれば、体と共に成長していく。
思春期においてかなりの動揺があるものの、成人するまでに外側の世界での自分の定位置(社会人になるか、学問を続けるか、家庭に入るかなど)を見つけなければならず、それまでに必ず、無意識のうちにペルソナを作っている。

仮にペルソナができなかったり、かぶってはみたものの自分とサイズが合わず落してしまったりすれば、外界に適応できなくなってしまう。
ペルソナを作ることは、通常の社会生活を営む上では必要不可欠だ。だから人は、一生を通じて多くのペルソナを身につけることになる。

このペルソナが、強くなりすぎることがある。
あまりに理想の人物を目指したり、いわゆるい人の仮面をかぶり続けると、いつの間にか本来の自分が見えなくなってしまうのだ。
人に気をつかい、周りに合わせてばかりで本音の自分を殺しているうちに、いつしか自分の心の声を聴く能力が減退して、本当は何をしたいのか自分自身の本心が分からなくなっていく。

社会に適合してうまくやっていくには、 合理的に機能するペルソナをもつことが必要になる 。
精神的な健康を維持するためには、社会の求める顔と、真の自分との間にバランスがとれていなければならない。

そうであるなら、その場その場の状況に柔軟に対応でき、その背後に存在する自我が矛盾なく反映されるペルソナは、よいペルソナということになる。
一方で、ペルソナでしか判断されない人、ペルソナ抜きではその人を思い浮かべることができないような人、そのような場合よいペルソナをもっているとは言えない。

たとえば、どんな状況にあっても「先生(権力、権威)」としてしか振舞えず、相手が誰であっても「生徒(目下、未熟者)」扱いしかできないペルソナは、問題あるペルソナだ。
最近であれば何かと物議をかもす、地方行政のトップにこの手の人物が多いのを感じずにおれない。

ペルソナは 、他者と良好な関係を築き、社会をうまく渡っていくのにこの上なく役立つ。
逆に言えばペルソナなしで社会を渡るのは、裸で通りを歩くようなものだとも言える。
ペルソナを持たない(持てない)人物は攻撃に対して全くの無防備であり、実に弱く、傷つきやすい状態にあるのだ。

ペルソナをかぶることで、普通であれば耐えられないこともできるようになる。
たとえばクレームをつける客にひたすら謝り続けることができるのも、の自分ではなく、組織の一員と言うペルソナをかぶっているからだ。

ペルソナは幼少期より、親の期待、先生の期待、仲間の要求などに合わせる必要性から成長していく。必要不可欠なものである以上、ペルソナをかぶり続け使い分けることは、良い行いのようにも思えてくる。

だが、ちょっと待ってほしい(by 朝日新聞)。
仮面はあくまで仮面であり、本来の自分の顔ではないはずだ。ペルソナを要領よく使いこなし、いつしかペルソナと素顔が一体化していけば、一見して生きていくのはラクになりそうだ。事実、ある程度まではそうだろう。

しかし人間の心の大部分を占める無意識の領域(ユングによれば「自己」)は、外面そとづらであるペルソナと折り合いをつけることができるのだろうか。かならずしも、そうはならないだろう。
(次回に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす

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