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今までのカラヤン
カラヤンの指揮を、スポーツカーを駆るドライバーに譬える評論家がいた。
評者は彼の音楽が「精神性」から外れていると揶揄するために用いているのだが、そういう人に限って、スポーツカーを運転したことがないのかもしれない。
スポーツカーを操るとは、どういうことか。
走る、曲がる、止まるが高次元に、自分の手足のようにすぐに反応してくれる一体感は、大衆車にはない快感だ。逆に言えばステアリングやブレーキに遊びがないため、走行中は一切気が抜けないということでもある。
自分の体と違うのは、移動するスピードが圧倒的に異なる事であり、注意散漫な状態で運転などすれば、大きな事故を招きかねない。
酔って運転などはそもそもご法度として、心身ともに健全であることを、常に要求してくるのがスポーツカーと言える。
265,000キロの走行距離を誇る我がハイブリット車は、僕に多大な要求をせず、故障したりと余計な負担をかける事もない優等生である。
税金や保険料金、高止まりしたままのガソリン代には言いたいこと満載だが、田舎を移動するのに欠かせない存在だ。
こじつけのようだが、僕のような大衆車であっても、走行中に聴くカラヤンはこちらの気分と実に調和する。目的地に到着しても途中で切るのが惜しくなり、一つの楽章を通しで聴いてしまったこともある。
ポルシェを操るカラヤンは、そのまま天下のベルリン・フィル、ウィーン・フィルを指揮する姿に被る。世界のトップ集団をきっちりコントロール下におく爽快なドライブ感は、やはり余人をもって代えがたい魅力だ。
今朝はカラヤン指揮ウィーン・フィルで、ブラームス交響曲第3番をお目覚め音楽にしてみた。
1961年の演奏だが、カルーショーが手掛けたデッカの録音が素晴らしい。豊潤で艶のあるウィーン・フィルの一つ一つの声部が、一切の曖昧さなしに、極めてクリアに描き分けられていく。レコードに初めて針を落とした時には、正直言って演奏以前に音に酔いしれたものだ。
半世紀前、クラシックと言えばグラモフォンとEMIが2大レーベルで、カラヤンの録音もこの2社に集中している。残念ながら音質的にデッカ・サウンドとは少なからぬ隔たりがあり、カラヤンに触手が伸びない一つの要因になっていた。デッカのカラヤン廉価盤が、1枚千円で売られていた時期もあったし。
第1楽章はよく鳴るオケと流麗なカラヤンの指揮で、何の抵抗感もなくさらさらとした液体のように耳の中を流れていく。まさしくスポーツカーの爽快さをもって、音楽は進行する。
かといって一本調子には決してならず、後半部はギアチェンジで速度を落とし、郊外から市街地に入ったかのような変化を見せる。オケを制御する能力が、ハンパなく高い。
第2楽章は中庸なテンポに戻り進むが、まだローカル色の濃かった当時のウィーン・フィルの木管、特にクラリネットとファゴットの淡々とした足取り、オーボエなどがいい味を出している。
カラヤンの解釈自体は”ナウい”のだが、オーケストラの”方言”が良き方向に作用しているようだ。
サガンの小説「ブラームスはお好き?(Aimez-vous Brahms?)」は映画化された際、「さようならをもう一度(Goodbye Again)」にタイトルを変えた。エスプリの効いた原題に対して、アメリカ映画ならではの単純明瞭なタイトルだ。
小説において、コンサートの場面で演奏されるのがブラームスのヴァイオリン協奏曲だ。これが映画になると、劇中何度も流されるのは交響曲第3番の第3楽章になる。
センチメンタルなメロディに乗せ、ヒロインを演じるのは気品あふれるイングリッド・バーグマン。小説はフランスお得意の入り組んだ男女の恋愛劇だが、映画の方はひたすらロマンティックなラブストーリーじゃなかろうか。
観てないんで知らんけど。
しかし僕にとってこの曲は、ダサい男の典型のような音楽である。
幸薄かった自らの半生。場末の酒場で安酒飲みながら独りうじうじ振り返る、うなだれた初老の男が浮かんでならない。
その悲哀に満ちた後ろ姿に自らを重ね、目を閉じ、涙の一粒流す男の純情。クサいね~。こっ恥ずかしくなるねぇ。でもそれこそがブラームスの真骨頂であり、その情景にピッタリはまるのが朝比奈隆の演奏だったりする。
弱き友よ、共に泣こうじゃないか。こういう心情に寄り添ってくれる浪花節の世界があったっていい。
カラヤンの演奏に、そんなセンチメンタリズムなど欠片もない。かといって素っ気ないというわけでもなく、甘すぎることもなく、さらりと歌っているようで聴き手を存分に納得させてしまう。
カラヤンのスタジオ録音を楽譜の再現芸術として捉えると、その演奏はいつも完璧に近いと表現するしかない。それが逆に、チャイコフスキーでもブラームスでも、皆同じように聴こえてしまう結果を招来することになる。
文句のつけようがないのに残るものもないという、不思議な表現者なのだ。
音楽は決して、「精神性」だけで成り立っているわけではない。
むしろそうした曖昧な概念を取り払い、世界屈指のオーケストラを自分の意に沿うようとことん鍛え上げ、究極の再生装置として聴かせることのみで成り立つことを証明して見せたのが、カラヤンという指揮者である。
その徹底した割り切りゆえに、カラヤンの音楽は今も残り続けているのだ。
イラスト Atelier hanami@はなのす