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人生は喜劇か

「笑いの大学」の時代設定は、昭和15年秋となっている。当時の日本の状況はどうであったか。

日本は1923年(大正12年)の関東大震災や、1930年(昭和5年)の昭和恐慌によって、甚大な経済的ダメージをこうむった。
経済を立て直す活路を見出すべく、中華民国(当時の中国)へと進出する。
1932年、中華民国東北部に「満州国まんしゅうこく」という傀儡かいらい国家を設立した。

翌1933年には国際連盟から脱退するなど、日本は独自の路線を歩み始める。その行動を苦々にがにがしく見ていたアメリカとイギリスは、日本に対して経済制裁(輸出入の制限・禁止など)を行った。
当時の日本は、石油や鉄鋼など必要な資源をほぼアメリカから輸入していため、この措置は国家にとって死活問題となる。

世界から孤立しつつある日本は、ヒトラー率いるドイツと、ムッソリーニ率いるイタリアを頼った。
この2国は共産主義国ソ連に対抗するため同盟を結んでおり、支那事変しなじへんのさなかにあった日本にとっても、隣接するソ連の存在は脅威だった。
ドイツ・イタリアからしても、ソ連を牽制けんせいするうえで極東の日本と組むことは大きなメリットであり、1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国軍事同盟が結ばれる。

この年の10月、「大政翼賛会たいせいよくさんかい」が発足している。

当時の日本は、戦争によって領土を拡大したい勢力と、世界各国と良好な関係を構築したいもう一派に分裂していた。
近年の戦争(日露戦争・支那事変しなじへん)が負け知らずであったため、国民の熱狂から新聞の売れ行きも増加していく。
新聞各社(朝日、毎日等)は政府の外交政策を「弱腰」「軟弱外交」と糾弾きゅうだんし、対外強硬論をあおるなど軍部支持を鮮明とした。大手メディアの情報操作に国民が踊らされ、国益を大きく毀損きそんする構図は、昔も今も変わらない。
この年の7月、時の米内内閣が総辞職に追い込まれている。

これを受けて発足したのが、貴族政治家の近衛文麿このえふみまろが首相を務める第二次近衛このえ内閣になる。
そのなかで生まれたのが、「大政翼賛会たいせいよくさんかい」だ。
万人に国家への忠誠を誓わせ、来たるべき大戦に備えて国民が一致団結すれば勝てるのではないか、その発想からだった。

当時の与党だった立憲政友会や、野党筆頭の立憲民政党など、全ての党が大政翼賛会に合流する。
政党同士が一枚岩にならなければ、他国からの脅威に立ち向かえないと考えたわけだ。

以上の歴史的流れから、特別高等警察による取り締まりが強化されていった。
国体護持のため、無政府主義者・共産主義者・社会主義者、および国家の存在を否認する者・過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることが目的である。

警視庁保安課検閲係の向坂さきさか睦男(役所広司)は、生まれて一度も心の底から笑ったことがないという人物。劇団「笑の大学」座付作家・椿一つばきはじめ(稲垣吾郎)は、警視庁の取調室で向坂さきさかと対面する。

向坂さきさかとしては、そもそも「このご時世に低俗な軽演劇など不謹慎であり、上演する必要はない」という立場であり、浅草の劇団「笑の大学」の芝居『ジュリオとロミエット』を上演禁止に持ち込もうと、椿の台本に無理難題を課していく。
敵国となったイギリスの戯曲『ロミオとジュリエット』のパロディなど言語道断、上演許可が欲しければ登場人物は全て日本人に書き換えろと迫るのだ。

許可がおりないうちは、劇団員の稽古も始められない。椿はなんとか上演許可を貰おうと、向坂さきさかの指摘をすり抜けるような台本に書き換える。

『金色夜叉』のパロディ『お宮と貫一』。
「よく一晩で、これだけ直せたもんですねぇ」「感心しました」「確かにお宮がいきなり出てきたのには驚いたな、考えましたねぇ」「思いついたときは嬉しかったでしょう」などと椿を持ち上げておいて、最後に「笑えはしなかった」と落とす。

「実は…向坂さきさかさんには感謝してるんです、ある意味で」
「この脚本ほんは、日本に置き換えたことで逆に面白くなった気がするんです。つまりそれによって、劇中劇の必然性がより明確になった。これは、二重構造の面白さなんです」

以下、喜劇の手法が椿の口を借りて、綿々めんめんと語られていく。まったく異なる他者の視点が入り込むことで、当初の脚本ほんの質がどんどん向上していく仕掛けなのだ。
2日目の難癖は、「どこかにお国のためというセリフを入れてください」。椿が激しく抵抗すると、「お国のため、お国のため、お国のため」と3回繰り返すように、要求をさらにヒートアップさせる。これに対し椿は頓智とんちで返し、そのたびごと完成度は上がっていく。

このようなやり取りを5日6日と重ねるうち、やがてふたりの間には奇妙な友情が芽生え、皮肉にも完璧な喜劇台本が完成する。
しかし、いよいよ上演許可が下りようと言う日、椿はつい口を滑らせ、笑いを弾圧しようとする体制を非難する。
これが向坂さきさか逆鱗げきりんに触れ、明日までに笑いの要素を一切取り除いた台本に書き換えろと、究極のムチャぶりを言い渡されてしまうのだった。

さて、椿はこれにどう対応するか。オチまでは野暮ゆえ明らかにしないが、個人的にはそれってどうなの?と首をひねるものだった。
むしろそこに至るまでの二人のやり取り、加害者的立場が共犯者へと徐々に移行し、「笑い」とは何かを追求する様は生きた喜劇論として面白く、勉強になった。そのプロセスだけで、十分な価値がある。
お薦めしたい映画だ。

三谷幸喜監督作品といえば、近日公開予定の「スオミの話をしよう」が気になっている。suomiって、フィンランドのことだ。
Minä rakastan Suomea.

イラスト Atelier hanami@はなのす

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