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ニカの夢
バド・パウエルがなんで『クレオパトラの夢(Cleopatra's Dream)』というタイトルをつけたのか知りたいのだが、なかなか情報に辿りつけない。
そもそもこの曲自体、日本以外の人気は大したものでないらしい。
「クレオパトラの夢」には、コードがE♭7、A♭mの二つしかないシンプルな組み立てになっているので、キーで作り出される色合いが一層大切になるわけで、やみくもに「オリジナル・キーじゃないとダメ~!」と叫ぶ石頭じゃない。
この質問を、演奏者、寺井尚之にそのままぶつけてみました。答えはズバリ「クレオパトラの肌の色!」威厳に満ちて美しい色合い。黒人のルーツである絶世の美女の肌の光と、寺井尚之は即答。黒人には、「音楽による肖像画」の伝統があります。作曲者バド・パウエルの心の中には、きっと琥珀色に輝くクレオパトラの肌色があったのだ。
寺井はさらに、「この色は西洋の色彩より日本文化の持つ色合いに近い」と言います。例えば写楽の着物の色や、能衣装の色彩も、A♭mに近いと寺井は言う。
バップと日本古来の色彩感覚が共通しているから、日本人はジャズを愛し、バッパー寺井尚之が生まれたのかもしれないな!クラシックでは、A♭m(変イ短調)はベートーベンのピアノソナタ「葬送」の第三楽章とか、「哀切」や「憂愁」を表現する色合いとして選ばれるけれど、バド・パウエルの「クレオパトラ」はもっと「壮麗」だし美しい。
なるほど、日本人好みのキーが用いられているというわけか。
そっちはわかったけど、このエキゾチックなタイトルの意味は不明なままだ。
「dream」と名のつくジャズのスタンダードと言えば、ホレス・シルバーが1954年に作曲した『ニカの夢(Nica's Dream)』だろう。
イギリス生まれでジャズのパトロンであり、作家でもあったキャスリーン・アニー・パノニカ・デ・ケーニヒスヴァルター男爵夫人に捧げられている。
彼女の父方の祖父は、初代ロスチャイルド男爵ネイサン・ロスチャイルドである。ニックネームの「ニカ」は、「パノニカ」を短縮したものだ。
世界一の富豪の血筋ながら、第二次世界大戦中はナチスドイツと戦うため自由フランス軍に入隊し、暗号解読員、救急車の運転手、ラジオの司会者として働いている。大戦後は連合軍から、中尉として勲章を授与された。
1954年にセロニアス・モンクと出会って以降、彼女はアメリカで彼の作品を擁護し、1962年にコロンビアから出たアルバム『Criss-Cross』のライナーノートも書いている。
1958年、デラウェア州警察にマリファナ所持の容疑で、モンクと共に告発される。少量のマリファナが発見されたとき、彼女は友人モンクのため、罪を被ったのだった。刑事責任を負い、数晩を刑務所で過ごしたりもしている。
僕からみれば「中尉」よりもはるかに気高い、人生の勲章だ。
ホレス・シルバーは彼女について、こう語っている。
「オハイオ州ヤングスタウンのジャズクラブで、ジャズ・メッセンジャーズと1週間演奏した時のことを思い出す。
バンドが何度も演奏時間に遅れて観客も集まらなかったため、クラブのオーナーはアート・ブレイキーに金を渡すことを拒否した。
私たちは1週間分のホテル代を払わなければならなかったが、誰も金を持っていなかった。ホテル代が払えなくて刑務所に入れられる自分の姿が目に浮かんだ。
ところが、アートが男爵夫人に電話すると、彼女は私たちのホテル代を払ってくれたうえ、ニューヨークに戻れるよう送金までしてくれた。
彼女はジャズの大ファンで、素晴らしい人だった」
まさに、ジャズの恩人である。当然、彼女に捧げられた曲は数多くある。
セロニアス・モンクの『Pannonica』、ジジ・グライスの『Nica's Tempo』、ソニー・クラークの『Nica』、ホレス・シルバーの『Nica's Dream』、ケニー・ドーハムの『Tonica』、ケニー・ドリューの『Blues for Nica』、ダグ・ワトキンスの『Panonica』、フレディ・レッドの『Nica Steps Out』、バリー・ハリスの『Inca』、トミー・フラナガンの『Thelonica』、フランク・ターナーの『Nica』等々。
バド・パウエルに関しては、『A Portrait of Thelonious』のカバーアートを手がけている。バド・パウエル、ソニー・クラーク、コールマン・ホーキンスなど、ジャズミュージシャンの葬儀と墓地の費用を支払ったのも彼女だ。
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バド・パウエルに限って、恩人パノニカ男爵夫人に曲を献呈しなかったとは考えにくい。
『クレオパトラの夢』のクレオパトラとは、世界で最も美しい女性「絶世の美女」と評された存在だ。
ジャズ・ミュージシャンにとっての唯一無二の存在・パノニカを、バドがクレオパトラに重ね合わせたのだと妄想したって、許されるのではないか。
金持ちだからできたことだって?とんでもない。
ここまで生きた金の使い方を実践した金持ちが、一体どれほどいるというのか。
モンクの『Pannonica』一曲とったって、彼女なしには生まれなかった人類の至宝である。
パノニカのみた夢は、ジャズという黒人が生み出した最上の芸術を世界に知らしめ、認知させることにあった。
夢は現実に変わり、現在に至る。
イラスト Atelier hanami@はなのす