やっぱ、なんかやる
子供の頃から本を読むのが好きで、将来は小説家になるんだと漠然と思っていた。
ただし、具体的に創作活動に励んだかと言えば、これまでただの一度も実践したことがない。
何度か日記をつけようと思い立ったことはあるが、まさしく「三日坊主」で、4日目まで到達した記憶がない。小学校の夏休みの宿題に絵日記があったが、まともに提出できたことなどなかったんじゃないか。
「三日坊主」の言葉の由来だが、一人前の僧侶(坊主)になることを志す修行僧が、三日ほどたつと脱落してしまう様子から来ているという。
修行は早朝に起きて食事の準備や掃除を行い、読経をするなど厳しい毎日で、中途半端な気持ちでは続けられない。
たとえ意気込んで出家したとしても、しばらく経過したら再び俗人に戻ってしまう様は、まさに僕自身だ。
ところがnoteは今年元旦から始め、なぜか続いている。
さらに3年前からX(旧Twitter)をやっていて、去年暮れまではテーマを決めて毎日10回くらいつぶやいていた。今はnoteの記事をそのまま貼るだけにしているが、こっちもよく続いているもんだと我ながら感心する。
おれ、こんなに飽きないでやれる人間だったかなぁ。
今日のこの記事を上げると、確か連続320日になる。だんだん字数も増えていって、今は2,000字/日のペースに落ち着いている。
原稿用紙換算で1,825枚になるから、小説にするならちょっとした大作の規模になる。内容はともかく、続けていくうち思いもしない量になるんだな。
noteのフォロワーさんの中には小説を書き続けている方が数名おられ、物語を創造するという行為自体に畏敬の念を抱く。今の僕にはそうした創作意欲の欠片すら、残っていない。
創造行為と言えば、音楽は好きなのにただの一度も自分で演奏しようと思ったことがない。ひたすら享受する側で満ち足りてしまう。
絵画も、小学校の授業で描いた人物画が、県のコンクールに入賞したことがある。担任の女先生が、せっかくの才能(?)を伸ばそうと次のコンクールに間に合わせるため、僕だけ授業中にクラスメートの絵を描かせたりもした。
ところがそうなると、まるで結果が出せなくなってしまうのだ。
中学生になると、講談社文庫で読んでいた「古典落語」をやろうと思い立ち、社会の先生に顧問をお願いして落研をつくった。
学園祭で全校生徒を前に「小ほめ」を披露すると、これが大うけ。
枕も自分で考え、根拠のない自信に溢れひとり数役を演じたものだから、音楽の先生から「二重人格者」とご評価をいただく。
実は嬉しかったのはこの「二重人格者」のみで、あとは「名人、次回は何やるんだ」と、周囲からはエラい期待ばかりかけられるようになった。
ところがなぜか、期待されるほどそれに応えようとする意識は遠のき、次のネタを覚えようという気がまるで失せてしまった。
翌年の学園祭は同級生に高座を譲り、落研の活動も自然消滅となる。
褒められて伸びるのが大概の人であれば、褒められてやる気をなくすのは、人としてちょっと変わっているのかもしれない。
期待に応えようとかプレッシャーから萎縮するのではなく、単に興味が失せてしまうのだ。そんなことが62年の人生に、何度かあった。
自分もそうだよという方がおられれば、ぜひ教えていただきたい。
話しを戻せば、そんな自分がなぜnoteやXを続けられているかと言えば、一つには具体的メリットがないからだろう。
どちらも明確な目標があってやっているわけじゃないから、とりあえず自分の手持ち(内面にあるもの)を公開していればいい。それ自体は結果として、よき頭のトレーニングになっている。
もう一つ、自分を棚卸してみて実感するのは、編集作業が好きという事だ。
動画も、撮影するほうは苦手意識が常に付きまとうが、撮ってきた素材を構成し、一つの形に仕上げていくのはさして苦にならない。感覚的に素材を組み上げていく過程は、けっこう楽しくもある。
noteもXも、僕にとっては創造的行為というより、一種の編集作業になる。ネットから拾ってくる様々な情報・知見を自分なりに再構築して一つの記事にまとめていくプロセスは、「編集作業」に当たるはずだ。
日記が三日坊主になってしまうのは、自分にとっては創作に該当していたからで、「今日は何をしました」の記録であれば話は違うかもしれない。
しかしそんな日常の記録をつける気など毛頭なく、日記を(まるで実力は伴わず)「文学」にでもしようとしていたわけである。
それじゃあ、続くはずがない。
自分の中に創造性はないと分かっていても、様々な情報を集め形にする能力なら、多少はもっているとの自覚が持てた。
来年に向け、今からその試行錯誤を始めている。金儲けの才能もまるでない自分だが、もしかしたらこれまでの積み上げが、功を奏するかもしれない。
いずれにしろ、なんかして食っていかなきゃなんないし、自分のお尻を叩きながらけっこう長時間、パソコンと向かい合う日々を送っている。
追:「古典落語」の「子ほめ」のサゲは「どう見ても厄そこそこだ」だったのに、いまYouTubeで見ると「どう見てもタダだ」になっている。
古典にも2パターン、あったのかねぇ。
イラスト Atelier hanami@はなのす