古びた映画
Amazon Prime Videoには、日本の古い娯楽映画が数多く公開されている。ときどき思い出しては、そのとき目に留まった名も知れぬ昔の作品を鑑賞する。
最近の邦画は低予算なのは仕方ないとしても、説教臭いのが少なくないので、イマイチ触手が伸びない。海外で賞を獲ったものでも、黒澤清以外は何が面白いんだかよくわからない。
ちなみに黒澤清だと、何が何だか分らないところも含め面白い。今年9月公開予定という『Cloud クラウド』も、楽しみにしている。
半世紀以上前の映画というのは、観始めると最後まで観てしまう。ストーリーがありきたりでも、当時のカメラワークや照明の当て方、セリフ回しやファッションセンス、何より街の様子がいちいち(僕が生まれる以前であっても)懐かしくて、新鮮でもある。
間違って当時の人情ものなんか選んでしまうと、もういけない。いま1955年(昭和30年)の『警察日記』を思い出したら、条件反射で目頭が熱くなってきた。
人情に厚く貧乏子沢山の巡査(森繫久彌)が捨て子の赤ん坊のおむつを取り替えるシーンなんざ、頭に浮かんだところで即座に涙腺が決壊する。母と子の別れのシーンに至っては、完全に拷問レベルだ。
また観なくちゃいけない気分になってしまった。いやだなぁ。
さっき観たのは『東京のお転婆娘』というドタバタ喜劇である。
ある意味、いろいろな意味での場違いを楽しむ(本当は楽しくもないんだが)1本だ。
まずタイトルからして、東京が舞台と思いきや、単に東京に住んでいる設定のお転婆娘が、大阪でひと騒動起こすという物語である。冒頭の羽田空港から大阪に飛ぶ全日空以外、東京は一切登場しない。
この当時は「東京」というブランドに集客力があったという事だろうか。だとすると、誇大広告じゃなかろうか。
主人公の美術大生・佐伯有子(中原早苗)は、飛行機で大阪の姉のところへ遊びに行くところ。待合室で大阪の商人・渋田昭七(藤村有弘)と知りあい、夫婦になりすまして1割5分の割引料金で乗りこむ。立派な犯罪であり、偽装結婚のはしりのようでもあるが、誰もそんな細かいこと気にしなかったんだろう。実に大らかである。
姉は未亡人で、バー“ど・とんぼり”のマダムをしている。彼女は夫の友人で画廊経営の城戸から、赤字分の補填をしてもらっている。
二人は互いに心中惹かれ合うも、亡夫を想い、プラトニックな関係のままでいる。
その城戸が借金で窮地にあることを知った有子は、金主で渋田布地問屋の社長のところに押しかけて行く。その社長の昭七が、飛行機で同席した男だったというわけ。
渋田に借金返済の要求を却下された有子は、なぜか今度は渋田の父親・金次郎(殿山泰司)に交渉する。理由は全く分からない。
その際、自作の抽象画『藻を刈る女』を持参し、「儲かる女」をアピールするあたり、当時はこういうダジャレがウケていたのかと思って戦慄する。
それを見て「面白い!」とバーの改装費まで出しちゃうんだから、渋田社長の親父も異常である。
つーか、関西の商人には、前衛芸術を理解する審美眼の持ち主がいたってことか。有馬温泉に妾と出かけて小遣い渡してるジジイと、同一人物とはとても思えないのだが。
有子は金次郎から用立ててもらった資金でバーを改装するが、これがダダイズムの前衛バーなのがすごい。しかもそれがバズって大繁盛、借金まで完済しまうのだから、SF映画も真っ青の誇大妄想作品である。
配役の心理描写も、浅いというよりメチャクチャだ。
女にとって一点の魅力も感じられないはずの守銭奴・渋田を、時にまんざらでもなくあしらい、最後は帰郷する「こだま」の車中、ふたり仲睦まじく寄り添う有子の心境など理解不能である。っていうか、作っている方も大して考えちゃいなかろうというのがミエミエである。
総じて何も残るものはなく、歴史の中に埋もれていって惜しくない出来であるが、唯一、時代のエネルギーだけは存分に感じられる。
変にきついシバリやモラルもなく、細部の辻褄合わせに拘泥しない大らかさは、一度映画館で観た客に後から検証されることもなかった時代なればこそだろう。
当時を知らない世代が小津安二郎の映画ばかり観ていると、昭和を見誤るというか、あんなに静謐で美しい時代だったのかと勘違いを起こしかねない。
小津作品こそは究極のSF映画であり、パラレルワールドの物語なのだ。
『東京のお転婆娘』の方がある意味、昭和の世相を忠実に反映しているかもしれない。
いかにデフォルメしようと、『東京のお転婆娘』には現代と変わらぬ人間模様が描かれている。それがさして面白くなく、異なるのは上昇の時代と下降の時代の差という事実に、改めて深刻さを感じたりもする。
イラスト hanami🛸|ω・)و