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私は人に優しい

優しい人なのか、
そう思うかもしれない。

なんだこいつ?と思う人もいるかもしれない。

これはそのままの意味ではなく、ある種の皮肉だ。私が私に向けた最大限の皮肉なんだ。

人に優しくありたい、これは信念であり正義感であり、とにかく私の大切な核である。

そう思っていた。

けれどどうだ。
それがどこから来ているか探してみたらとんでもないものが出てきた。

“人に嫌な思いをさせたくない”

“傷つくのは悲しいことで、自分はそれをやられたら嫌だから人にもやらないんだ”

つまり人を傷つけないのが優しさで、私の大切な核だと思っていたものが、本当は自分を傷つけない為の建前だったということだ。

傷つくのが嫌で、悲しくて、人にそれをやられたくないから優しくする。
私が大切に胸に抱えて長いこと守っていたものは、他者への想いではなく自己防衛の建前だった。

そもそも優しいとはなんだ。

ここでの優しさは“配慮に配慮を重ねた耳に優しい言葉だけを選ぶ”そういう優しさだ。

そしてそれを優しさだと勘違いしていた。

いや、これはこれでいい。
痛みがわかるからこそ最大限の配慮ができる、間違いなく私の長所の一つ。

でもそれが優しさとは限らない。

時には耳が痛いと思うことを伝え合うことができる、これだって優しさだ。

殻に閉じこもり、都合の悪いことを跳ね除けながら生きる事だって、別に悪いわけではない。

好みの問題だと思う。
身の守り方はいろいろある。
以前の私はそうやって自分の身を守ってきた。

でも今はそうも言ってられなくなってしまった。
自分に素直に生きるしか、道がなくなってしまったからだ。

本当はやりたくないのにそれに気付かず続けていたことは全て強制終了した。
無理をしていることに気付かずにいたら、蕁麻疹体質になり、薬がないと食べ物が消化できず、生理も来なくなった。
(現在は落ち着いてきて薬がなくても食べれるようになった、蕁麻疹の薬とピルは継続中)

そこまで症状が出て、自分が無理をしていることにようやく気付いた。
薬がなくても蕁麻疹が出ない、きちんと周期通りに起こるものが起こせる、そうなる為には生きやすくなるしかない。
それが今の目標だ。

何に対して気持ちが乱れる?
何に対して負の感情が出てきて自分をめちゃくちゃにする?

それを見つめるためには耳が痛いから、心が苦しいからって無視することはできない。

原因を探っている間は苦しい。
やめたい、つらい、背を向けたい、やりたくない。何度も何度も後悔しそうになる。
そんなことをしているのが馬鹿らしくなる。
薬を飲んでも蕁麻疹が暴発し、頭が痛くなり、お腹が痛くなり、ご飯が食べられなくなったこともある。

布団に引きこもって出て来られなくなってしまったこともある。

きっと、これからもあるかもしれない。

でもやめない。
私は私を諦めたくない。
ここで逃げても一瞬楽になるだけだ。

残念なことにせっかちなので、さっさと生きづらさを取り除きまくり、歳をもっと重ねた頃には気持ちを楽に、自分を解放して生きたい。

だから今のうちにめんどくさくて苦しくてやりたくないことをやっている。

正直やりすぎだと思う。

仕方ない、せっかちなんだから。
ショートカットルートを望んで歩いている。
選んでるのは他でもない私自身なんだ。

そのうちの一つとして、第一段階として、自分が傷つきたくないという場所から飛び出さねばならない。
何なら超重要事項だ。

もうコンフォートゾーンにはいられない。

安心するからとここにはいられない。

弱くやたら傷つきやすい自分を受け入れて、それを抱えたまま次へ行く。
過剰反応して苦しくなる自分から脱却する為に、傷つく覚悟を決める。

優しい私を演じるのはやめよう。
自分が傷つきたくないからと人に優しくするのはやめよう。

優しくするのをやめる、と言うのは過剰な気配りをやめるってことで積極的に人を傷つけに行くわけではない。
それはまた違った話になってくる。

耳が痛いだろうから伝えない方がいいだろう、何故ならそれを言うと自分が傷つくことを言われてしまうからだ、何を思われるかわからない、怖い、嫌われてしまうかもしれない、という場所から抜け出す。
サラサラ表面を撫でるだけの虚しい関係性の構築をやめる。

だからこそ、言葉はきちんと選んでいくつもりだ。
何か伝えたい事があるのなら相手が受け取りやすいように伝える。大切な事だ。

伝えたい内容は捻じ曲げず、それでいて受け入れやすいようにという配慮はしつつきちんと言葉にする。
もし悲しい思いをさせてしまったらその時はごめんねと言う。
最終目標は自分自身の生きやすさだが、その中でより生きやすい自分になりたい仲間たちが増えたなら、とても嬉しい。

少しでも生きやすくなり、自分に余裕のある人は周囲や自分を加害しないようになる。

自分で自分のご機嫌が取れるからだ。

自分だけが良ければそれでいいという自分勝手な人たちが減っていくかはわからないが、少なくとも良い作用はあるはずだ。というか、究極みんな自分勝手だ。私のこれもそう。

だがその自分勝手の質が変わることで、世は少しでも平和になる。

私の欲しいものリストのうちの一つが世界平和なので、そこにも繋がっていくんだと思っている。

私は人に対してコスパの良い人間だが、自分に対しては最悪だ、そう思っていた。
その自分へのコスパの悪さを別の方向に向けていく。
自分が我慢をすることで周囲をうまく循環させることへエネルギーを注ぐのではなく、より生きやすくなる為のエネルギーとして使う。

こんなコスパの悪さなら大歓迎だ。

人へのコスパの良さも、また別の方向へ向ける。
耳が痛くないことばかり言う表面上の優しい人ではなく、より良い自分になる為にコスパの良い人間になろう。

それはどうなんだい?と言うことをきちんと伝える事によって、何か気付く人もいるかもしれない、いないかもしれない。
傷つくかもしれない、つかないかもしれない。

私は投げることしかできない、相手がどう受け取るかは全て相手次第だ。

なので私はそれを理解した上で自分のしたいようにする。自分なりの優しさを提供する。


私は人に優しい、大切な核だ。

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