現場の自衛官が見た硫黄島編(御英霊に守られて)
まえがき
これは私が陸上自衛隊化学科隊員だった頃の事実に基づく体験談であり、物語ではなく、ひとつの情報資料として読んで欲しい。
これが災害等、危機管理の一助となりましたら幸いです。
また、今回は、中々一般の方は行くことのできない硫黄島での体験を通じ、皆さんに追体験していただけたらと思っています。
1 出 発
あれは私がまだ27歳の頃であった。
当時、私は第101化学防護隊(大宮駐屯地)に所属していた。
そんな頃、厚生省が実施する硫黄島での戦没者の遺骨収集支援に参加することとなった。
この事業は厚生省が中心となり、硫黄島協会、遺族会そして自衛隊員が参加し、遺骨収集団を編成して実施される事業である。
遺骨収集団は、団長のおられる団本部、これは主に厚生省の職員で構成され、全般統制と壕の調査を行う。
収集班は、その他の者が2〜3個の班に分かれて活動し、各収集班の中に必ず武器科隊員と化学科隊員が1名づつ含まれる。
こうして私と化学学校のO隊員の2人が派遣された。
本土出発は、6月、航空自衛隊入間基地からC−1輸送機で飛んだ。
出発前日、基地の近くにあるホテルNで顔合わせと調整会議が行われた。
硫黄島までは約2時間のフライトだ。太平洋上の位置で言えば、台湾北部の線と東京を真直ぐ南へ下ろした線がぶつかる辺りである。
貨物機の中は気圧の急変動で耳が痛い。うまく耳抜きが出来ない。苦しみながら、やっとの思いで硫黄島の滑走路へ降り立つ。「暑い〜」額に汗がにじみ出る。
まだ6月だと言うのに真夏のようにジリジリと陽射しが照り付ける。
ここ硫黄島は、周囲約22km、摺鉢山を除けば、概ね平坦である。滑走路地域の他は、広大なジャングルが広がっている。
「ここは南国なんだな〜」と思う。
当時の硫黄島には、海上自衛隊、航空自衛隊の他、アメリカのコーストガード沿岸警備隊が常駐していた。
私達は、クルー隊舎と呼ばれる建物に案内され、そこで宿泊することとなる。「狭い、蛸部屋だ」クルー隊舎は、すし詰め状態だった。
私は2段ベッドの上で寝る。滑り込むように上がって仰向けになると天井に手が届く。その天井にはヤモリが這っている。お世辞にも良い環境とは言えない。「我慢するか〜」
翌朝、外に出ると大きな鳥が、群れで私の前を横切る「七面鳥だ」なぜ、と思う。
以前、米軍が飼っていたものが野生化したようだ。「七面鳥て、以外と大きいんだな」と関心する。
2 遺骨収集作業
ここ硫黄島での私達の任務は、収集班が壕を掘り返す。埋め戻された壕を掘り返す作業は重労働だ。その作業中に御遺骨、御遺品を探すのだが中には危険な物も混在する。そのような物を検知したり、壕の中の酸素の薄い場所があれば、空気マスクを付け調査を行う。と言うのが主な任務だ。
壕の中は、地熱でとても暑い。私が入った壕の中で温度測定をして、1番暑かった壕は、55℃もあった。「こんな過酷な環境の中で、当時の日本軍は戦っていたのか」と思いを馳せる。
外気温は30℃を超えているのに、壕から出ると涼しく感じる。
また、硫化水素ガスが発生している場所もあり危険な作業なのだ。
しかし一番頻繁に実施したのは、作業中の壕の中の酸素濃度測定だ。
壕の中での作業は、知らず知らずに酸素濃度が低下する。僅かな酸素不足でも頭が痛かったり、身体が動かなくなったり、最悪死に至ることもある。だから作業中の壕内の酸素濃度測定はこまめに行い、酸素濃度の低下が確認されれば、作業を一次中止するよう促すのだ。酸欠事故が起きないよう気を使う。
3 ささやかな楽しみと再会
このような中にも楽しみはある。
ある休みの日の夜、私とO隊員は昼間海で釣って来た魚で一杯やっていた。するとそこへ硫黄島協会のSさん(もう結構なご高齢だ)が現れ私達につまみにとチーズをくれた。「兵隊さんこれ食うけ」、「ありがとうございます」なるほど、彼らから見ると私達は自衛官ではなく兵隊なのだ。
Sさんは、この硫黄島でお父様とお兄様を亡くされたと言っていた。「このチーズはどこで」と私は尋ねる。「売店だよ。毎週水曜日に定期便が来る。翌日行ったら無くなるぞ」「PX(売店)か~」
また、ここでは水が貴重だ。滑走路に降った雨水を溜めて、それをろ過し飲水に利用している。戦時中は、水の確保が難しく過酷な状況だったであろうことは容易に想像がつく。
兎に角、ここでは水は大変貴重だ。毎朝作業へ行く際に、基地でも数ヶ所しか水が飲める場所はない。その場所で水筒に水を入れ出発する。
私のいるクルー隊舎では、蛇口を捻ると生温かい泥水が出てくる。そんな状態なので、売店のミネラルウォーターは取りあいだ。私も定期便が来た日にミネラルウォーターを買いに行った。
売店に行くと、けして多くはないが日用品や食べ物、飲み物などが売られている。「あった、あった」1Lのペットボトルを数本抱え込みレジまで運び、まじまじとラベルを見る。「秩父の原水」「おおお〜お久し振りです」思わず涙が出る。(埼玉県人)埼玉から1000km以上離れた離島で再開だ。
4 硫黄島の御英霊
ある日の作業でかなり埋まっている壕を発掘することとなった。「これは大変そうですね」と私は言った。
Sさんは言う「いや、遺骨はな、入口付近で見つかるんだよ」「なぜです」「それはな、火炎放射器とかで炙られて、苦しくなって出てきた所を撃たれたり、散々戦ってやっと自分の壕へ辿り着いたら、安心して死んでしまうんだ。だから壕の入口付近で沢山見付かるんだよ」なるほど、と思う。
作業は、30分堀り15分休憩を繰り返す。それでもキツイ、汗だくだ。
昼近くになり、昼食が届く。弁当だ。またまた、ささやかな楽しみに顔が緩む。
そんな中、遺骨の一部が発見される。
掘り出すのは時間がかかる。私は皆に昼食を配り休憩したが、Sさんが一人で掘っている。
「Sさ〜ん、お昼にしましょう」と私は言った。するとSさんは、「バカ言ってんじゃね、俺の親父かも知れね」私は、ハッと胸を突かれる。私も一緒なって掘る。
私は今までこの作業をどこか他人事の様に思ってはいなかったか。
自分の家族だとしたらそう思うのは当然だろう。
私は何だか自分が情けない気持になった。
私も掘りながら涙が溢れてくる。
その日の収集作業を終え、壕の前でお線香を焚き手を合わせる。
帰り際に私は壕を振り返る。すると、そこには御英霊がこちらに向かい敬礼をしている様に私には見えた。私は姿勢をただし答礼をする。
今思えば、あれはまぼろしだったのかも知れない。
5 硫黄島との別れ
その後、今回の遺骨収集作業では、170柱の遺骨が収集された。
現在でもまだ、1万柱以上の御遺骨が残されたままだ。
そして、洗骨の儀式(骨から土等を取り除き綺麗にする)があり、後日、天山慰霊碑(皆さん千鳥ヶ淵と呼んでいた)で献花をする。その際、一緒に作業していた団員の中に靖国神社の神主もおり、彼がそれを取仕切っていた。
1件の事故もなく無事終えることが出来たのは、御英霊に見守られているからだよ。と、硫黄島協会の方々は仰られていた。
最終日、私達は御遺骨を抱き硫黄島ヘ別れを告げ、C−1輸送機に乗り本土へ帰る。
入間基地は雨であった。エプロン上に基地司令以下が、整列し御遺骨を出迎えた。
ここで遺骨収集団の方々とは別れ、私達は駐屯地へ帰る。
その年の戦没者追悼式への招待状が時の内閣総理大臣、宮澤喜一から届く。
こうして私の1ヶ月間に渡る硫黄島での支援は終わった。
おわりに
この硫黄島で日本国のために戦い、約2万の方がお亡くなりになられました。その御英霊に対し、改めて哀悼の真を捧げ、硫黄島での体験談を終わります。
ありがとうございました。
著 者 宮澤重夫
平成30年に陸上自衛隊化学学校化学教導隊副隊長を最後に退官
現役時代に体験した、地下鉄サリン事件や福島第1原発事故対処等の経験談を執筆中
主な資格等
防 災 士
第2種放射線取扱主任者
JKC愛犬検定最上級
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