まつりごと
相変わらずの雑感…
以前、日本語という「発話」から始まる言語の妙について、いろいろと個人的な考えを書き綴ってみたが、今回は「まつり(まつる)」と発話する言葉の数々についての考察。相変わらず専門知識は皆無なので、そこらの親父の駄法螺だと思っていただけると幸い。
昨年から約一年間、国政選挙(参議院)やら統一地方選挙やらと、図らずも関わりを持たせていただきました。自分が直接関わってはいないけれど、隣の町では昨年、参院選の前に町議会選挙が行われていて、議員への立候補者がいなくて苦労していたという話も耳にしたところ。
まあ、面倒なことなんて、自分と関係無い誰かが決めてくれた方が楽だよね…ってなことだろうか?
それで決まったことに不満を言っても、その状況を選んだのは自分自身だよね?
「どうせ誰がやったって変わりはしない」とか斜に構えて嘯いたってさ、変わらないのはそれを容認してる大多数な訳ですよ。
それでいろいろと関わってみての感想。
「ああ、これって『まつり』なんだよな」ってこと。
たぶん「まつり」って言葉は、大勢のひとが集まって何かをすることだったんじゃないのかなと思うのです。
だから政治も「まつりごと」だし、神社の祭典も「おまつり」、複数人で何かを敬ったり拝んだりするのは「まつる」と言うでしょ?同じ意味なんだと思う。
それで何かが決まったり、盛り上がったり、騒いだり、祝ったり、その他諸々、ぜんぶ「まつり」な訳です。
選挙事務所に居ても、応援者や支持者が集まってきて、選挙期間中いろいろと交流が深まったりするんですね。世間話から真面目な話題まであれこれと。で、自分たちが「まつった」候補者の当選を祈るんですな。
これ神社の祭祀でも同じじゃね?と思うのです。
まつるのは人じゃなくて「社稷」というヤツなのですけど。
土地の神と五穀の神に人々の安寧を祈る思想ね。たぶん中国から伝来した考え方だと記憶してるけど、間違っていたらすみません。
だから「まつり」って言葉は、人々の心が落ち着く何かをすることなんじゃないかと考えてます。
有能な指導者を選んで社会が平和になると、みんなの気持ちも落ち着くでしょ?
普段の鬱憤を晴らして騒ぎまくった後って、心がすっきりするじゃない?
何かに祈って心の平穏を保つってのも大事。
明日も生きていられますように、これからも食べ物に困りませんように、災害が起きませんように…何かを祀って、祭りをやって、政(まつりごと)を治めて、人心の安寧を図る。
それが「まつり」の本質なのではないかと思って、ここに記してみる。