サムライクリスチャン 稀代の知将黒田官兵衛
豊臣秀吉の天下統一事業に大きく貢献した黒田官兵衛の信仰
黒田官兵衛は当時の武将としては珍しく側室を持たず、
のちにキリスト教の洗礼を受けた背景には、一夫一婦制を大原則とするキリスト教の教義への共感もあったのではないかと言われています。
1575年(天正3年)、主君である小寺政職に、織田信長への臣従を進言。織田信長の下で数々の実績を重ねます。ところが1578年(天正6年)、摂津国(現在の大阪府と兵庫県
ルイス・フロイスの書簡には、受洗後の黒田官兵衛が大坂のイエズス会副管区長のもとを数回訪れ、「教会のためにできることがあれば何なりと助力しようと申し出ていた」ということが書かれています。
織田信長の死強。秀吉は、天下統一の階段を登ります。その天下統一の功労者のひとりであるにもかかわらず、豊臣秀吉が黒田官兵衛に豊前国中津(現在の大分県中津市周辺)のわずか12万石の領地しか与えなかったのは、抜かりない策略家としての側面を豊臣秀吉が警戒したためと言われていますが、一方で「黒田官兵衛がキリシタンであることを心よく思っていなかった」という説も根強く残っています。
宣教師のガスパール・コエリョがイエズス会の年報に記した内容によれば、黒田官兵衛も豊臣秀吉からキリシタンであることをとやかく言われることはなかったと言われています。
しかし、豊臣政権になくてはならない軍師である黒田官兵衛が多くの武将にキリシタンになることを強く勧め、イエズス会への支援を表明していることを豊臣秀吉が関知していたことは間違いなく、そのあと急速にキリシタンへの締め付けを強める一因になった可能性も十分に考えられます。
息子の長政と弟の直之も洗礼を受けた。ところが同年、秀吉が突如「バテレン追放令」を発布。官兵衛は直ちに棄教したといわれる。
しかし、官兵衛はキリシ タン大名の小西行長の遺臣らを保護しているところから陰でキリシタンに協力していたことは確実です。
1589年(天正17年)、黒田官兵衛は長男の黒田長政に家督を譲り、その後も引き続き豊臣秀吉の側近として小田原城の無血開城などを成功させた他、1592年(文禄元年)の「文禄の役」(ぶんろくのえき)で朝鮮出兵にも加わりました。
翌1594年(文禄2年)の8月頃には剃髪(髪を剃ること)し、それまでの実名である「孝高」(よしたか)に代わって「如水軒円清」(じょすいけんえんせい)を名乗り始めています。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去したのち、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では黒田長政が徳川家康の養女と婚姻関係を結んだことから徳川勢の東軍として戦っていますが、この頃から黒田官兵衛の身体は徐々に病に侵されており、1604年(慶長9年)の3月に京都伏見藩邸で死去。59歳でした。
その死に際して、黒田官兵衛はキリスト教のロザリオと祈りの言葉が書かれた紙を胸に抱き、自身の亡骸をイエズス会の宣教師のところへ運ぶよう命じたと言われています。
その死から2年後、領内に黒田官兵衛の追悼記念聖堂が完成し、追悼ミサが執り行われました。
豊臣秀吉の側近中の側近でありながら、彼の発令した伴天連追放令を受けても、黒田官兵衛の信仰心の強さを何よりも強く物語っているのです。