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ウクライナ人の苦しみ -ロシア帝国の刻印(1)
4月25日 ウクライナ・プラウダ:(6,716 文字)
特殊軍事作戦「ロシア化」について「真実の歴史」編集長 Vakhtang Kipianiに聞く
ウクライナに対する本格的侵略の3日前、プーチンは歴史についての談話をしています
レーニンがウクライナを作ったと言い、ウクライナ人に「真の非共産化」を教えると宣言したのです
この狂った演説の後、2月24日に始まった「特別作戦」の目標は全く達成することはできていません
逆に「非ナチ化 」によって、ウクライナ人の愛国心レベルは最大限に高まっています
プーチンの「非武装化 」は、西側による軍事支援を増やし、ゼレンスキー大統領がNATOに「ウクライナ軍は必要な戦力を満たしていない」と二度と言わないよう求めるほどに、ウクライナ軍を強くしました
そしてプーチンの「真の非共産化」は不可逆的な非ロシア化現象を引き起こしています
ウクライナでは、ますます多くのロシア語話者がウクライナ語に切り替え、ロシア文化的コンテンツを放棄しています
チョルノービリやトランスカルパチアではプーシキンの記念碑がT-34戦車と同じくらい積極的に解体されています
さらに、キーウでは、地下鉄駅の名前を変更する動きが始まっています
また、ウクライナ全土の自治体が積極的に地名を変えています
イワノフランクフスクや他の都市でドブロリューボフ、ドストエフスキー、レルモントフ、ネクラソフ、メンデレーエフなどの名の付く通りは、ヴォルノヴァカの英雄の道、チェルニヒフの英雄の道、マリウポリの英雄の道などへと名前を変えました
「歴史的真実」の編集長Vakhtang Kipianiによれば、長年の非共産化にもかかわらず、キーウ周辺だけでも数十、数百の地名がそのままで、ロシアによるウクライナへの本格的な侵略の前でさえ、奇妙で不適切に感じるほどでした
2月24日にウクライナ軍と契約した Kipiani は、記念碑や通り名の形をしたソ連の刻印が、本来そこにあるべきウクライナの詩人、芸術家、科学者、戦争と解放の闘争の英雄の場所を占領していると考えています
たとえば、キーウには今日でも、レールモントフ(帝政ロシアの詩人)にちなんで名付けられた9つもの通りと路地があります
私たちは電話で Kipiani にロシア文化の美点と、ウクライナがそれを必要としているか、について話しました
そして、ロシア帝国とソビエト連邦の植民地政策におけるプーシキン(帝政ロシアの詩人で記念碑や像が至る所に置かれていた)の役割を明らかにし、「ロッソフォビア(ロシア化嫌悪)」という用語を学び、地下鉄駅が「レオトルストイ広場」で何が悪いのかということを学びました
(インタビュアーA)-ウクライナ人の大量殺戮が始まる前に、プーチンは私たちに「本当の非共産化」を約束したが、ウクライナの非ロシア化のプロセスが始まりました。レーニン像の破壊、プーシキンの破壊が始まりました。
(インタビュアーB) ―プーシキンは何の罪を犯していますか?
罪があるとも言えるし、無いとも言えます。
プーシキンは、ロシア帝国とソ連が支配領域を示す刻印です
例えば、ウクライナ人自身は偉大な帝国文化より劣っていると感じていました
プーシキン像がそこに立つ理由は一つしかありません
プーシキンが「ロシア人」だからです
「私たちロシア人はそれを行う力があり、あなたたち(ウクライナ人)は忍耐強くなければならない」のです
これはロシア帝国だけでなく、イギリスやフランスの植民地政策でもありました
これは客観的な事実です
一方、プーシキン自身が持つ神話(注:プーシキンは強運の持ち主として知られ、数多くの決闘で、自分からは一切撃たず、相手に撃たせ、いずれも弾が外れ、当然の如く笑って済ませていたという逸話がある)とプーシキン作品(注:反身分制度的政治色のある作品群)についても注意深くならなければなりません
「帝国のトルバドゥール」という本を書いた英国の研究者エヴァ・トンプソンがいます
ロシアは征服した地域の支配を確立するためにプーシキンの文学作品を利用した、と彼女は考えています
プーシキンの時代には、ウクライナはもはや「ホットスポット(話題の場所)」ではありませんでしたが、プーシキンのポルタヴァや他の作品でウクライナの話題が取り上げられました
プーシキンの詩とイデオロギーは、コーカサスとクリミアでの戦争の武器でした
あるいは、サンクトペテルブルクの支配がウクライナ人には永遠に必要なものだと示し、ウクライナ人をなだめるために利用されたのです
私たちはウクライナの市民として、これらの帝国の物語に対して冷淡でも熱狂的でもありません
ロシア人は私たちにとって、もう見知らぬ他人です
プーシキンが本当に生きて、実際に足を運び、何かした場所以外では、プーシキンの居場所は無いのです
それが理由です
(インタビュアーA)- チョルノービリでは、プーシキンの記念碑の運命は数年間から議論されていましたが、ロシアの侵略がそれに終止符を打ちました
これはどういうことでしょうか?
問題は地方自治体の慎重さだったと思います
慎重さは社会の一部です
やったことが無い事はやりたくないというイデオロギー
これは何にでも当てはまります
「なんてこった」
長年にわたり、スヴォボダ党代表のナダル(チョルノービリ)市長はプーシキン問題を解決するため、さまざまな愛国的組織から請願を受けてきました
チョルノービリのプーシキンは、ヴィーンヌィツャに由縁のあるピロゴフでも、オデッサに由縁のあるメチニコフでも、クリミア半島に由縁のあるプーシキンでもない(プーシキンとは縁もゆかりも無い)からです
チョルノービリのプーシキンは、植民地時代のシンボルであるということに異論はありませんでした
T-34赤軍戦車のようなもので、「アレクサンドル・プーシキン」と呼ばれているだけです
しかし、市長は、何も悪いことをしなかったとされる詩人像を撤去することで、支持率の半分または数パーセントを失いたくなかったのです
そしてそれは、当局が社会の圧力を感じ取るまで続いたのです
いざ撤去されてみると、誰もプーシキン像を守ろうと出てくることはありませんでした
プーシキン、チョルノービリにとって帝国の支配を示す以外、何の意味も無かったのです
チョルノービリのプーシキン記念碑は、帝国の分かりやすい刻印でした
プーシキンの言葉とこの土地とのつながりは存在せず、存在したこともありませんでした
その場所は、レオトルストイ、ツルゲーネフ、チャイコフスキー、ガガーリンなどのウクライナの人々の居場所です
誰でもいいです
その名前は今は重要ではありません
(インタビュアーA)- 私にとって、この戦争の象徴的な出来事の1つは、ボロディヤンカのタラス・シェフチェンコ(ウクライナの吟遊詩人)への銃撃でした
トランスカルパチア州のテルノービリのプーシキン記念碑の解体は妥当な対応でしょうか?
私たちのロッソフォビア(ロシア文化嫌悪)はまだ足りないのでしょうか?
あなたが言いたいことは分かります
それにはこう答えましょう
プーシキン、または他のロシア人の誰かが、大ざっぱに言って、他のウクライナ人の居場所を奪っているのです
数年前、非常に優れたインフォグラフィックがウェブサイトTexty.orgで作成されました
これは、ウクライナの街路の名前の由来を示しています
最も多い人名由来の地名25のうちウクライナ人にちなむものは半分未満です
ウクライナには、ショット・ルネッサンス(1930年代、ウクライナ文化の「浄化」のためにウクライナ文化人コミュニティーが「粛清」された事件)のすべての詩人を合わせた数よりも多くのミチューリンやプーシキンの名の付く街があります
ウクライナの詩人、科学者、地元の歴史家、司祭、その他の人の名があるべきものが、ロシア人の名前に取り換えられているのです
しかも、私たちはまだ都心に近い場所についてしか話していない(十分に知らない)ことを、忘れないでください
キーウに「ヴァシル・クック(ソ連時代のウクライナ民族解放軍の司令官)通り」ができた経緯を覚えていますか?
キーウ市ボルトニチ区に、「ブディオンニ大通り」から名前が変更されました
ヴァシル・クックはボトルニチのために、ウクライナの自由のために戦った人の名です
しかし、中央通りの名はまだ、「プーシキン通り」です
オデーサとシュケビッチでは「プーシキン通り」が郊外にもあります
カテリーナでは「プーシキン通り」が中心部にあります
「ルサンチマン(復讐感情)」ではないかと言われるものを、私は、「本物の名前で呼ぼうとする国民の勇気」と言いたいと思います
このように、ウクライナにはまだ議論もされていない、地名、歴史、文化地図のロシア人の名前がたくさん残っています
そこに、その名前があっても、その場所は歴史的にロシアに起源があるということではないのです、間違いなく
私たちは少しだけ場所を譲らなければいけないロシアとソ連帝国の文化人について話しているだけなのです
私は「全部消せ!」という立場は支持しません
ちょうど、イワノ・フランクフスクでサハロフ通りが改名されたとき(アンドレイ・サハロフ。水爆を作った科学者グループの一人で天才科学者。ソ連で特権階級にあったが、後にソ連を批判し、ウクライナ民族主義者を支援するためにキーウに移住した。)、私は「それは間違っている」と言いました
すると、ミロスラフ・マリノビッチ(現ウクライナカトリック大学副学長。反ソ連、反ロシアとして活動を続けてきた政治活動家)、ヴァシル・オヴシジェンカ(反ソ連、反ロシアとして活動を続けてきたウクライナの政治家。言語学者。)、ミコラ・ゴルバル( 反ソ連、反ロシアとして活動を続けてきた政治家。詩人、音楽家。)など反ロシア派からの手紙が届きました
そして、地元当局は次のように決定しました...
通りの半分をサハロフに、もう半分をウクライナのペレモヒの名前にしたのです
とても象徴的なことでした...
ところで、キーウで「マゼパ通り」に変名する話がありました、(イワン・マゼパ:ローマ正教会から「破門」された、18世紀の反ロシア的ウクライナ貴族)覚えていますか?
実は、モスクワ総主教庁からの圧力で、ロシア正教会修道院の住所がマゼパのものにならないようにしたのです
それで、ラヴルスカになりました
ラヴルスカ、それはとても美しい名前です
何も反対することはありませんが、モスクワに対する、ペチェルスクの教会軍に対する、キーウ当局の弱腰の結果です
話しを戻します
サハロフ通りがイワノ・フランコフスクの地図にできたのは、かなり象徴的です
なぜなら、サハロフ通りは旧チェキスト通り(「チェキスト」はKGB職員の事)であり、イワノ・フランコフスクのKGBの建物が、まさに、その場所にあったからです
共産主義的奴隷制度から解放され、全連合、ウクライナの伝統が取って代わったことを示す歴史的な瞬間でした
ミチューリンやプーシキンとサハロフの間には大きな違いがあります
サハロフにはウクライナへの功績があるからです
アレクサンドル・プーシキンは、いかなる意味でも、ウクライナ人の自由意思のために、ウクライナ解放のために何もしていません
アンドレイ・サハロフは、ウクライナの自由戦士の特別で重要な物語を伝えるために多くのことをしています(反ソ連運動を率いた指導者の一人ヴァシル・ストゥスへの支援を繰り返し表明している)ノーベル平和賞を受賞することになった1975年の作品「国と世界について」では、ヴァシル・ストゥスやオレシャ・セルギョンカ(反ソ連政治活動をした政治犯。ソ連崩壊後、ウクライナ・キリスト教民主党などの党首を務めた。)などウクライナの活動家が登場します
リヴィウまたはイワノ・フランコフスクに彼の名の付く場所を設けてください
彼を無視することは、私たち(ウクライナ人)自身の歴史に対する無礼だと思います
(インタビュアーA)-「非ロシア化」という言葉についてどう思いますか?
この言葉は正確でしょうか?
私は哲学者ではないので、その判断は難しい
このプロセスを「脱植民地化」と呼ぶ人もいます
私は次のように見ています
ロシア帝国の軍事的、科学的、文学的、政治的遺産が私たちの国のあまりにも多くの場所を占めている、と
私はすべてを捨てることには反対ですが、このロシア帝国の遺産をそのまま残すことには反対します
たとえば、私の青春時代の街、ニコラエフには、19世紀のロシアの軍人画家、ヴェレシュチャギンの博物館があります
立派な芸術家ですが、ニコラエフとは何の関係もありません
ニコラエフでは、ヴェレシュチャギンはもう十分です
(インタビュアーA)- 私たちが話しているこの脱植民地化プロセスは、何らかの方法で規制されるべきでしょうか?
もしかして、私たちが手掛かりにできる世界の歴史はありますか?
さまざまな事例があります
物質的な破壊(そして、文化の担い手の殺害)の事例さえありますが、もちろん、その方法は私たちは採用できません
たとえば、北アフリカ、アルジェリア、チュニジアでは、フランス文化の担い手であると考えていた地元の人々が絶滅しました
なんとか船に乗ることができた人々は、フランスのマグレブへの移住の基礎を形成しました
今では、フランスには彼らの孫がたくさんいます
フランス代表サッカーチームを見てください
かつて、ロシアのポーランドに対する勝利の象徴である、壮大で巨大な大聖堂がワルシャワの中心にありました
ポーランド政府は独立を取り戻し、立ち直ったとき、この神聖な建物を爆破しました
今ではワルシャワの中心にある大きな広場です
ポーランドにはおそらく何百もの正教会がありますが、この大聖堂だけは、ロシア政府によるポーランド人支配と二つのポーランドの独立戦争蜂起の敗北の象徴であるとして爆破されたのです
それぞれの事例は異なります
名前の変更については、80年代後半から90年代初頭にかけて、ワルシャワ条約機構の国々は地名を脱植民地化しました
たとえば、私たちが学校で学んだチェコの反ファシスト、ユリウス・フチク(チェコスロバキア共産党のメンバー)には、フチク通りがキーウにあります
しかし、ユリウス・フチクの故郷であるプラザに、そのような名のつく通りはありません
「なぜでしょう?」
チェコ共和国が共産主義から解放されたとき、チェコの「フチク通り」はその名前を変えたのです
チェコ共和国は、反ファシストでありナチスの手で死にかけたにもかかわらず、フチクの役割をチェコの歴史において通りに名前を与えるほど大きくはないと考えたのです
それなのに、なぜキーウはフチクを尊重する必要があるのでしょうか?
ソビエト当局によってウクライナの道に名前が付けられた人々について言えば、キーウにはソビエトに敬意を表する約100の通りがあります
これらは見知らぬ他人です
同時に、ウクライナに何百年もの間存在してきた歴史的な名前、地名があっても、それらはキーウの地図に書かれていません
フチクのような海賊たちがいるので、地図に載るチャンスの無い、キーウに縁のある人々がいるのです…
(インタビュアーA)-首都の地名変更について、最も迷うことは何ですか?
私は、いわば、すべてを当然のこととして受け入れています
ソビエト政府は、旗、戦車、街路を使い、可能な限りすべてに刻印を押しました
キーウには九つのレルモントフの道があります
九つもです!
信じられないでしょうが、私を信じてください
レルモントフが三つの歩道、五つの車道、一つの通りにあるのです
彼は優れた詩人ですが、問題は、レルモントフがウクライナに来たことさえないということです
私たちの地図に載っていない世界中の何千人もの詩人、芸術家がいます
しかし、レルモントフはそこにいるのです
なぜでしょう?
彼がロシア人だからです
これが唯一の理由です
私は迷いを感じません
私はそれを間違っていると感じるからです
ハイネ、シラー、オビッド、プラトンはなぜ地図にないのでしょうか?
彼らはロシア人ではないからです
キーウにはマミン・シビリヤカ通りがあります
なんということでしょう、申し訳ないが、この人は有名作家ですらありません
トルストイとドストエフスキーがまだ世界的人物であるのはマシな事例で、マミン・シビリヤカのような作家の名前もゴマンとあります
(つづく)
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