ナゴルノ・カラバフ問題
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この問題の明確な起源はロマノフ朝ロシア帝国とカージャール朝ペルシャ(イラン)の対立にまで遡ることができる
当時、コーカサス地域で領土を巡り争っていた両国は、1813年のゴレスタン条約、1828年のトルコマンチャーイ条約で現在のアゼルバイジャンの地を二分する事に合意した
この結果、1813年以前はペルシャの領土だったとされる同地域はロシア帝国の領土となり、1828年からの180年の間、ロシア帝国、ソ連の一部であった
そして、ソ連崩壊の1991年を迎え、この地域はジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアとして独立することになった
では、180年の間にアゼルバイジャンの地にどのような事が起こっていたのだろうか
1828年、ロシア帝国に編入されると、この地域は北部と南部の二つの異なる地域として扱われた
そして北部はアルメニア人の居住地としてアルメニア化政策(アルメニア人の入植)が採られたという
これは、トルコマンチャーイ条約の第15条に基づき実施され、1911年においては国際法上合法的なものであった
こうして、現在のアルメニアの首都エレバンとカラバフにおよそ100万人のAM人が定住することとなった
アルメニア人の入植のため、原住民であるアゼルバイジャン人に対する虐殺が行われたという記録がある
1905年から1907年にかけて、アゼルバイジャン人の虐殺、排斥、文化の排除、アゼルバイジャン建築物の破壊が行われているといわれている
また、1917年のロシア革命の際には、反革命的であるという口実で多くのアゼルバイジャン人が虐殺されているといわれている
アゼルバイジャン人は、反革命的であるというのは口実に過ぎず、実態は人種差別に基づく民族浄化であったと信じている
そして1918年5月28日の独立の日まで、アゼルバイジャン人は下級市民という地位に置かれていたと考えている
1918 年 5 月 28 日、長い奴隷生活の後、アゼルバイジャンの人々はロシア帝国から独立した
アゼルバイジャンの人々は、現在のアゼルバイジャンの北部にアゼルバイジャン民主共和国を設立した
1918年から1920年にかけて存在したアゼルバイジャン共和国は、世界のさまざまな国との外交関係を確立した
16カ国が首都バクーに外交使節団を置いていた
1919 年 4 月、アゼルバイジャン政府はカラバフに暫定的な総督府を設立した
国際連盟は、アゼルバイジャンの管轄下にあるカラバフ総督府を認めていた
同年8月、ナゴルノ・カラバフ(アルツァフ)のアルメニア国民議会は正式にアゼルバイジャンの統治を受け入れた
したがって、アルメニア側が主張する、ナゴルノ・カラバフの独立は法的にも政治的にも存在していなかった
現代のカラバフ事件は、1987年末にアルメニア人がアゼルバイジャンに対して開始した侵略により始まっている
また、アゼルバイジャン人はアルメニアから一斉に追放され、約2万5千人が難民としての生活を余儀なくされたにもかかわらず、アルメニアはナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンとして認めようとしなかった
1988 年 2 月 20 日、ナゴルノ・カラバフについてアルメニア共同体の代表者の領土拡大の要求に対し、ゴルバチョフが曖昧な対応をとった事により、アゼルバイジャンとアルメニアは軍事的衝突までエスカレートすることとなった
ソ連崩壊後紛争は激化し、1992年2月26日、ホジャリ市でアルメニア軍は前代未聞の大虐殺を行い、街を完全に破壊した
この紛争により、アゼルバイジャンの領土の 20% 、ナゴルノ・カラバフと周辺の 7 地区がアルメニアに占領されることとなった
75万人のアゼルバイジャン人がこれらの地域から難民化することととなり、25万人のアゼルバイジャン人がアルメニアから追放されている
現在、アゼルバイジャンには 100 万人を超える難民と国内避難民がいる
(終わり)
注:ベースはアゼルバイジャンの歴史学者の文章です
参考: