信太郎や他一部の人格についての話し。

<読み手によって不快な内容となります。ご注意ください。>


信太郎や他一部人格とは言ってるが実際元は違う人達について。

彼ら元々、実体の無い存在です。
現在も大元の意味ではそうですが。
何故じゃあ人格の枠組みに入ってるのかと言うと、信太郎だけじゃなくてほかも各々考えたりした結果がそこに至ったというのが簡単な説明となりますが信太郎のを詳しく書いてみます。

信太郎の場合
元々そばでうろちょろしてて、困ってたり、泣いたり、泣くのも我慢したり。
いじめがあっても歯を食いしばっている僕を見てはいつもそばで手を貸そうとしてたり、撫でたり、励ましたりとしていたそう。
でも、何をしても反応は返ってこない、見えてない、聞こえてない、何をしても自分の存在に気付いて居ないというのがすごく歯痒い時間を何年もと過ごしていたそうです。
そんなある日に僕では無い、誰か何が内側にいる、そんなふうに感じて観察してみることにしたそうです。
どんどん観察して、見ていくに連れて
「これって、歩がたまに本やなんかで見る何とか人格って奴じゃね?」
となったそうです。
そこで何度も何度も繰り返し、自分もそれと同じように内側から支えたり励ましたり、身代わりやったりしようと努力してたそうです。
一発ではい出来た!とはならず、何度も弾き出されたり、そもそもその、人格のいる場所と自分のいる場所が違って出来なかったりとたくさんの努力の末に人格のように代わることが出来るようになったそうです。
努力の中には人格と会話をする、情報をやり取りする、まとめる、相談を聞くなどしていたそうです。
その成果もあり、僕が初めて信太郎を認識した時は本人はすごく喜んでいて、その時は既に他の人格からの信頼も厚く僕の事はものすごく嫌いな人格でも信太郎は兄のように接するとかあります。
僕がやめて欲しいと言う事をやめはしなくても、信太郎がやめて欲しい事を伝えるとすんなりと大人しくなると言うほど。
この、信太郎の成功を見届けつつも一緒に努力してた人達が後に同じように人格の枠組みに入ると言う手段を取り、現在は別にどちらの存在でもあり型枠にはめなくてもいいさって感じです。

信太郎の他にも数人(正確な人数は出しません)が同じような手法で人格枠に入りつつも、色んな方面のサポートをしてくれてます。
人格からの悩みも不可視からの相談も受けてるのが彼らです。
どちらの悩みも知ってるからですね、それぞれのそれぞれでの困り事やどうしたらいいかと言うことを。

それはどっちの存在でもある、彼らだから出来るのでは無いかと思います。

僕は人です、この体の主です。
だから、人格の方の悩みは聞いたり対策考えたり話し合ったり出来ます。

ですが、不可視側の悩みや疑問、対策は考えたとしても上手くいきません。
ズレが出るんです、僕らの常識と不可視側の常識が少しばかりズレがあるんですよ。
なので、そこの橋渡しのようにしてくれたりとしてます。

その悩みなら誰に相談するといいとか、こういう風にしてみるといいかもとかを。

僕は信太郎達を厳密な<人格>としては発言はしておらず、でも人格達の中で信頼をし、心置きなく話せる信太郎達は自然と統括と同じ存在にはなってます。
強制力は之江には少しばかり負けます。
僕に対しての強制力については。
それ以外人格を抑える他色んな面を彼らはやってくれます。

そんな風に今までずっと過ごしていて、役割とか肩書きと言うものを僕自身も、他の人格達も特に必要してないどころか、そんなもん押し付けんなってのがほとんどですから。
誰はこういう役割だから、こうとかないです。

交代人格とか主人格とかいう言葉も面倒で好かなくて、知識のズレは人格であってもありますからそれはあまりあっても意味は無いなと。

基本人格さえ分かればそれでいいなって言う感覚です、確かに困った事もありましたが、困ったのは僕だけではないこと。
それを信太郎達が色んな角度で見方で説明してくれたりしてたので今は比較的協力的ではあります。

ここでは人格と不可視で区別して日記を書いてる訳では無いです。
だって、DIDを知らないとか知っててもうっすらとか言葉だけとかの人からしたら不可視も人格も目には見えないでしょ?

だから、くどくど何度も説明していたら説明する側も疲れて来るし、見る側もどんどん鬱陶しいってなるんですよ。

だからここでは別に区別とかせず、不可視達と人格達皆が好きに話せるように、話をメモしたり出来るようにとしてます。

人格だから不可視と話せないとは誰が決めました?
不可視なのに人格としているのはおかしい、それは確かにそう。
でも、彼らがその枠組みにも入ると決めて努力したきっかけも理由も過程も誰かがその一言で無かったように潰そうとする方が、僕から見たらおかしい事ですよ。
誰かの努力を自分の持ってるものと違うから否定し潰すというのは愚かな行為だと個人的に思います。

僕らはお互いが大切である、というのは人格同士でもあれば不可視と人格でもあります。
そこに変な境目は無用だと僕らのところはそのやり方というか生き方です、違うというのを尊重しつつ受け入れる。
無理な部分は無理だと言う。
それを長くやって来てます、記憶が消えて困ること今日もありましたよ、娘に関する大事な話を自分がその話しを聞いた記憶もした記憶も一切無いんです。
だから、申し訳といつも思っている。
抜けが1日まるっとの時もあれば1日の中の少しの時間とか、バラバラです。
固定なんてされてません。メモしてない人もいます。

最後に、これはあくまでも僕らの中のひとつの例です。
悪しからず。

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