評価し、評価される社会から抜けて5年
わたしは元教師で約17年、現場にいた。
教師は常に子供を評価する立場。
それと同時に評価される立場でもある。
上司、同僚、保護者、子どもから常に評価され続けている。
評価するということは、当然評価基準がある。
それが当たり前の社会では、
自分がどうしたいかなんて、重要ではない。
どうみられるか、
どう評価されるか、
そうやって評価に飲み込まれて、
自分を見失った。
結婚して妊娠して、子どもを産み、
子育てを始めたら、
こんどはお母さんとしての評価基準を探し求めて、
育児本やどの先生の言うことが正しいか。。。
そこにとらわれるようになってしまった。
そして、二人目の子どもを死産した時に初めて、
妊娠したら生まれてくるというのは
当たり前じゃないということを体験し、
今までの概念、常識がひっくり返るような感覚になった。
わたしは、何者なんだろう。
わたしは、どうしたいんだろう。
わたしは、何のために生きているんだろう。
そんな漠然とした問いに答えられない自分。
どこまで飲み込まれていたんだろう。
常識と思っていたことは本当にそうなのか。
評価基準は正しかったのか。
わたしはどうしたいのか。
わたしにベクトルが向いた瞬間、わからなくなる。
それが子どもを産んで初めて感じた、
自分を生きていない自分への虚無感だった。
そして、辞職を決意して3人目が生まれ、
今、本当に自分を生きていると感じられる。
これほどの幸せがあるだろうか。
社会的には何も成功していない。
何かを成したわけでもない。
でも、私は私と一緒にいる。
評価社会から抜けたら、
正しさなんて何もない。
自分のアイデンティティを
何にも縛られずに一つ一つ丁寧に精査し、
つくっていく。
これほどの自由があるだろうか。
誰かを評価したら評価される。
当然のことである。
わたしもずっとやってきた。
満たされない自分がいるから、
他者を評価し他者を落とす。
自分に向かない。
自分に向けると耐えられないからだ。
今ならよくわかる。
人のことを言っている間、
その話を聴かされている相手は、
うんうんと聞きながら何と思っているだろう。
「こわ」
「めんどくさい」
「私も言われるんだろうな」
なんて思いながら、味方のような顔をしてやりすごす。
仕事でも同じことだ。
あいつはあーだこーだと言ってるうちは、
自分の非はさらされない。
それを聞いている同僚は何と思っているだろうか。
評価するのはもうおしまい。
本当の幸福はそこにはない。
わたしが散々やってきてわかったこと。
だから評価する人を批判することもない。
教師は人を評価するのではない。
学校が定めた基準に値するかどうかを評価しているだけで、
それが人間性に繋がることはあり得ない。
だから、成績が悪いからといって責める必要もないし
落ち込む必要もない。
先生も評価される立場なのだ。
そこに、正しいも間違いもない。
教育という世界の中でやっていること。
ただそれだけなのだ。